「物事の真実を把握するためには、そのものがそのままに受けとれなくてはならない。真実が受取れるためには平静心、平衡体でなければならない。平静となるためには無対立、無条件でなければならない。要求を持ち、差別を持つと乱れてくる。有無を超えた状態つまり空になって始めて全体を受取る心・全体を受取る体となれるのである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房57頁)。
密教ヨガに学ぶ神人合一の人生
其の二十七 スイッチがオンになっていれば、重要な閃きがふっと頭に浮かんでくる
「正姿勢」は文字通り正しい姿勢で、「全身のどこにも力が遍在していない、重心の安定している状態」のことです。正姿勢であれば、丹田を中心に全身が一体となり、余分な力、特に肩の力が抜けおります。
其の二十六 囚われや拘りは、何かを学んだときや、教えを受けたときにも起こる
沖導師は感受性を働かせる上で、集中することが大事であると述べています。
「同じ刺戟でも注意を集中していると感受性が高まり、注意の散漫なときには感受度が低下する。また心身のくつろいでいる時と息の深く静かな時にも感受性は鋭敏である。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房55~56頁)。
其の二十五 本来の日本人の感性や感覚を取り戻す
世界中どこの国の文化も、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)を使って成り立っています。中でも日本文化は、いっそう五感を繊細に働かせていると思われます。
日本画の自然な色彩の豊かさ、自然の音と一体化する邦楽器音、自然の香りをたしなむ香道、抹茶の自然な味わいを頂戴する茶道、手の鋭敏な感覚を生かす陶芸などを見れば、日本人がとりわけ繊細さを生かしてきたことが分かります。
其の二十四 常にバランスを取り、平衡状態を維持しようとするのが生命体の働き
沖導師は、バランスについて、また次のように述べています。
「刺戟と反応のバランスのとれていることが健康で、体が内外ともに整っている状態である。刺激と反応の不平衡が体のアンバランス状態であり、不平衡から平衡に還ろうと動く場合に異常を感じるのであって、これが病気でありまた苦悩である。つまり生きているということは常に平衡状態であろうとする働きをいうのである。この働きは保護すれば弱くなり、鍛えれば強くなる。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房55頁)。
其の二十三 全体を観・核心を掴み・流れを読むという綜學の在り方
筆者は「綜學」を提唱しています。「綜學」は、全体観による「綜合學問」のことです。全体學である綜學の「ものの見方や考え方」の基本は、何に対しても「全体を観る」ということから始まります。そして、全体を観たら、次に核心を掴み、さらに流れを読みます。
其の二十二 食べられることを喜びとする果物は“高級互恵食品”
何をどのように食べるべきかについて、沖導師は次のように教えています。
「何を食べるべきかは、その人の、その時(季節のもの)の、その所(生活している地方で産したもの)に適したものを選ぶべきである。つまり生命力の強いもの(蒔けば生えるもの)、できるだけ自然に近い調和のとれたもの(野草、山菜、果実等)、生食(調理しないもの)、完全食(葉・茎・根・頭・骨皮のまま全体をとる)、自然食(加工しないもの)を選ぶべきである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房52頁)。
其の二十一 少々の毒なら、排泄し浄化してしまえる心身を養うことも大事
「精神の作用」を生かすことで飲食に伴う毒化を防ぐとは、一体どういうことでしょうか。それは、プラスの意識で飲食することによって、食物を真に栄養化させることであり、免疫力を高めることによって、添加物などによる害を極力除去・緩和させよということです。
其の二十 毒という暗示を受ければ、ただの小麦粉や米粉も毒になってしまう…
さて、元来心身は一如ですから、同じ食物であっても「体の働きの整っている場合は栄養となり、乱れている場合は毒にも」なります。「体の働き」の中に精神状態が当然のこと含まれ、心が乱れると食欲不振による栄養不足に陥ったり、過食による栄養過多や消化不良に悩んだりします。
其の十九 少し飢餓状態なほうが健康に良い!
自己化してこそ栄養になるという話の続きです。沖導師は次のように教えます。
「真の栄養力は少し食べて、それを完全に消化吸収することのできる体の働きであって、生体は適応作用によって、常に多食していると多食しなければならなくなり、美食していると美食しなければ間に合わないような身体ができあがってしまうのである。そしてたとえ同じ物であっても、体の働きの整っている場合は栄養となり、乱れている場合は毒になる場合もあるのである。消化し易い物ばかり食している場合は、消化し易い物ばかりを消化する胃腸となってしまう。また身体自身が造り出すようなものを薬物で補給していると身体自身は造り出すことを怠けて、造り出さないようになってしまう。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房52頁)。