沖導師は感受性を働かせる上で、集中することが大事であると述べています。
「同じ刺戟でも注意を集中していると感受性が高まり、注意の散漫なときには感受度が低下する。また心身のくつろいでいる時と息の深く静かな時にも感受性は鋭敏である。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房55~56頁)。
何か一つの事を極め、その道の達人や名人を目指すような場合、当然のこと集中力が必要になります。真に集中している状態というのは、「一つの目的に向って全細胞が統一して働いている状態」(同56頁)なのだそうです。
それは、囚われや拘り(こだわり)などとは違います。集中せよと言われると、部分に囚われ、それほど重要ではないと思われる事に拘わる人を見かけますが、そういう余分な力が入っている状態ではありません。
囚われや拘りは、何かを学んだときや、教えを受けたときにも起こることです。学問を実践して早く身に付けようとし、一所懸命になって集中するのはとてもいいことですが、進歩成長を焦りますと、以前よりも自分を許せなくなくなったり、人を裁いたりしてしまうといった現象が現れます。
そこで今度は、囚われや拘りを取り去るために余分な力を抜こうとします。でも、一気に抜力しますと反動で全身がへたばってしまいます。余分な力どころか、必要な力まで抜いてしまうのです。
それまで力むことばかり学んできた人が、思想を180度転換させ、(表面的な)「無」や「空」といった哲学に宗旨替えをしたような場合がそれです。存在は幻であるから自分なんてどうでもいい、世の中はそもそも空虚であるから適当でいいといった気持ちが生じるのです。そうして「芯の無い人間」に堕してしまいます。それは、集中とは異なる単なる「へたばり」に過ぎません。
では真の統一のためにどうすればいいかというと、「統一には正姿勢と丹田呼吸と意識集中が必要である。正姿勢とは全身のどこにも力が遍在していない、重心の安定している状態であって、丹田呼吸とは深く静かな呼吸をリズミカルに行い、横隔膜が正しく交互に上下しており、腹部は正しく交互に前後に動いている状態で、集中された意識とは、そのもの以外に何もない状態である」とのことです。(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房56頁)。