憲法条文の改正案として「天皇は、日本国の元首であり、日本国と日本国民統合の象徴である」という言葉が出たところで、河戸博詞先生が口を開かれました。
「「その象徴という言い方が気に食わないなあ。日の丸が日本国の象徴というのはわかるが、生きてはたらいておられる陛下を国民統合の象徴というのは、なんだか腑に落ちないね。日本人は、あまり抽象的な表現では肚(はら)に力が入らないんだ」河戸は、もと軍人らしく単刀直入なものの言い方を好んでいた。」
(2018宮崎貞行『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』きれい・ねっとpp.231-232.)
大和言葉・国学の師である河戸博詞先生は、「鏡」がマコトの象徴であると説いていました。人や物の姿をありのままに映す鏡は、嘘偽りの無いマコトの精神を表していると。
マコトのマは、正に、学ぶ、丸いのマとして真実や真理の意味を持ちます。
また、凝り止まったものを意味するコトは、物事(ものごと)のコトであると同時に、言葉のコトでもあります。即ち、物事と言葉が一致しているところに、真実や真理があるのです。
このマコトの鏡に、玉と剣を合わせて「三種の神器」といいます。勾玉(まがたま)である玉(たま)は愛情や真心を、剣(つるぎ)は正義や勇氣を象徴しています。
鏡も玉も剣も、それぞれ一つの存在なのですが、それを表観すれば物として観え、裏観すれば(意味や価値としての)心が観えます。これを物心一元論と言います。物と心を明確に分けないところに、日本人の思想があるのです。
このことは、いわゆる五感で捉えることの出来る物的な存在について言えることです。それを、生きておられて言葉を発せられる天皇陛下にあてはめて「象徴」と呼びますと、存在意義が抽象化して(ブレて)いって、意味が不明瞭となるというのが河戸先生のご指摘です。それでは、日本人として「肚(はら)に力が入らない」とのことです。
さらに河戸先生が語ります。
「私利私欲に走っている政治家や自由をはき違えている国民をただ外形上ひとつにまとまる、統合するだけが天皇の存在意義ではないと思うよ。天皇は、国民の志を高め、政治家の行動を矯(ただ)す道義の師表であってもらいたいんだ。
ご自分の言葉で発言できない今の天皇の立場は、言ってみればすっかり骨抜きにされた日本国の代表と言ってよい。アメリカにしてやられたね」(同p.233.)
権力欲に取り憑かれ、名利にしか関心を示さない低徳政治家が多い中、彼らの襟を正すよう、道義の手本となるお言葉を発するところに「天皇の存在意義」があるというわけです。(続く)