大和言葉・国学の師である河戸博詞先生の盟友で、天皇の国師としてご進講役を務めていた三上照夫氏が、憲法と主権について次のように述べていたそうです。
「第一条で、天皇の地位、皇位は『主権の存する日本国民の総意に基づく』とありますが、この規定だと、現在の有権者の過半数が否定すると、天皇の地位は無くなってしまうという解釈になるおそれがありますね。憲法学者の中には、現在選挙権を有する者の多数決で、天皇を認めるも認めないも、国民の自由だ、権利だと主張する学者もあるが、これは決して正統な解釈とはいえません」(2018宮崎貞行『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』きれい・ねっとp.230.)
日本国憲法の第一条に、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」とあるため、それに従えば選挙によって皇位が否定されるおそれがあるとのことです。
同じく盟友関係にあり、熱心な神道家で皇宮警察警務部長であった仲山順一氏が、これに応じました。
「そうですよ、第二条で『天皇は世襲とする』と書いてあるので、その解釈は第二条と矛盾することになりますね。この矛盾を無くする解釈をしなければなりませんが、それには、『国民』という概念を見直さないといけないでしょう」
(同p.230.)
それに首肯し、三上氏が応えます。
「現在の国民というものは、過去からの歴史と伝統の下にあります。日本国民というときには、単なる一時代のものではなく、歴史と空間を貫く統貫史的な現象観念とみなければなりません」(同p.230.)
つまり「国民」は、先人やご先祖、歴史や伝統など、時空の広がりの上に立っている存在であると。
さらに、三上氏が述べます。
「民族自存の原理は、単なる多数決で何事もなしうるような安易な考えによっては生まれて来ません。数量的な判断ではなく、もっと歴史的、社会的、精神的な深みを洞察し、全日本史をつなげているところの統貫史的民族社会を把握してこそ、はじめて日本国民の総意と言いうるわけですね」(同p.231.)
確かに、多数決による「多数意」は、その時々による“風”や雰囲気に左右されやすく、必ずしも総意や全意(全体意識)とは言えません。多数決の結果としての数字も部分に過ぎず、衆知とは程遠い場合があることに注意が要ります。
これに、仲山氏が返答しました。
「おっしゃる解釈が正しいと思います。ただし、ふつう『国民』というと、いま生きている国民を指し、代々のご先祖様を含んでいませんね。亡くなった先人たちの意見も聞いて総意を判断しなければなりませんから、それを明確にするためにやはり憲法条文の改正が必要になってくるでしょう。私は、『国民の総意に基づく』という表現を消し、『天皇は、日本国の元首であり、日本国と日本国民統合の象徴である』という風に改正すべきと考えています。」(同p.231.)
国民の総意とは、今生きている国民だけの総意ではないというわけです。
ここで、「三上の横に座っていた河戸が不服そうに口を開」きます(同p.231.)。
(続く)