其の二十九 目に見える身体だけが、本当の自己ではない…

そもそも「自己」とは何であり、どこまでが自分なのでしょうか? 目に見える身体だけを自己とする考え方がありますが、それが全てでしょうか? 結論を言いますと、一般的に東洋日本思想においては、身心霊を綜合的に観ていかないと本当の自分は分からないとしています。

先述した通り、大は宇宙、小は量子に至るまで、物質と精神は最初から一体です。存在を表観すれば物質が、裏観すれば精神が観えるものの、それらは本来一つです。人間であれば、表観で認識する「身体」と、裏観で認識する「心体」が融合して成り立っております。

さらに、身体と心体が一体となることで生じているのが「霊体」です。霊体はミタマ(実玉)とも言い、身体を鍛え、心体を清め、身心一体となることによって、その働きが高まります。それが、「霊性の向上」です。

林の師匠である河戸博詞先生が登場している、『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』という本(2018宮崎貞行著、きれい・ねっと)があります。
その中で著者の宮崎氏は、下記のように「自己」について述べています。

「西洋で発達した近代科学は、科学的機器を用いて観測されたもののみが存在すると考え、それを理性的思考と呼んできた。科学的なセンサーによって観測されないものを認める態度を非理性的あるいは迷信と呼び、理性的思考をするものを「己」と定義してきた。

だが、東洋の伝統では、とりわけインドや日本の伝統においては、人間の持つ直覚、直観というセンサーを重視し、科学的機器のセンサーよりも精密なものとみなしている。また、シャーマニズムの伝統のある地域では、神々の神託を受け取る霊媒のセンサーも本来的に人間に備わっているものとして「自己」の定義を広げてきた。自己とは、目に見える限りでの自分ではなく、霊界、神界とも自由に交流することのできる存在と考えてきた。してみると、東洋においては、身心霊の調和を成し遂げ、霊界、神界とも自由に交流しうる己が、「よく整えし己」とみてきたのではなかったか。」(2018宮崎貞行『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』きれい・ねっとp.146.)

「科学的機器を用いて観測されたもののみが存在する」という考え方は、目に見えるもののみを信じるという近代科学の在り方そのものです。それが「理性的思考」であり、そうでないものは「迷信」として処分されてしまったのです。
そして、その理性で捉えられる存在こそが「自己」であると。

しかし、東洋や日本の哲学思想が説くところの「自己」は、もっと大きな存在です。(続く)