これまで学んできた沖正弘導師の教えの要点です。
・治る力は自分の内にある(自然治癒力)。
・症状は治る力の現れであり、生命の回復要求に他ならない。
・治す方法は一人一人違うから、自分で発見しなければならない。
・自分と病氣の事ばかり考えていると、治り難くなる。
・病氣を忘れているときに、治る力が働き出す。
・人の役に立つ事を行えば、病氣を忘れている時間が生まれる。
これまで学んできた沖正弘導師の教えの要点です。
・治る力は自分の内にある(自然治癒力)。
・症状は治る力の現れであり、生命の回復要求に他ならない。
・治す方法は一人一人違うから、自分で発見しなければならない。
・自分と病氣の事ばかり考えていると、治り難くなる。
・病氣を忘れているときに、治る力が働き出す。
・人の役に立つ事を行えば、病氣を忘れている時間が生まれる。
治す力は元来自分が持っており、それを自然治癒力や免疫力と言います。
治す力を引き起こすためには、自分で自分に刺激を与えねばなりません。
体操やストレッチ、武道やスポーツなどで心身に刺激を与えつつ、言葉や呼吸、食事などを留意します。
自力は、自分の内に宿されている自然治癒力(免疫力)。他力は、それを引き出すために外から加える力。これら自力と他力が一緒になって治療が進むわけです。
そのために、言葉や呼吸、食事など、生活に留意すべきことを述べました。また、体操やストレッチ、武道やスポーツなどを、バランスよく鍛錬・稽古することで、心身に良き刺激を与えるべきことについても述べました。
沖ヨガによる「病氣を治すための基本となる考え方」は、自分を治す力は、自分の内にあるというところにあります。このことに気付かず、いつも他を頼り、外ばかり見ておりますと、心身の慢性的な不調はなかなか好転しません。
そもそも医療人や治療家の役割は、人の内に宿る力(自然治癒力)を引き出すところにあります。物事を正しく見ていけば(正見・しょうけん)、その事実を自覚することになるはずです。
異常は、普段とは違う状態のことです。人体であれば熱や痛み、倦怠感などの違和感がそれにあたります。それらは辛い症状ですが、直ちに(悪でしかない)病氣なのかというと、決してそうではないと沖正弘導師は説きます。
違和感のある症状は、心身のバランスを回復させるためのものであり、「健康を維持しようとする働きの現われであ」り、体内に起こっている「治す力の働いている姿である」とのことです。
病氣は悪いもの、病氣の原因は外にある、治療は外から処置するしかない。
これらは、病氣に対する「通常の考え方」です。
病に冒されれば、辛かったり痛んだりするのですから、病氣を「悪」と捉えるのは当然のことです。病原菌などは外からやって来るのだから、それを如何にして追いはらうかに苦心した歴史があります(疫病退散・病魔退散)。
そして、病氣は放っておいたら悪化するだけだし、自力ではもう救われないのだから、あとはもう名医や妙薬を見付け、ひたすら外から有効な治療を受けるしかないと他力にすがります。
しかし、沖正弘導師は、それらは病氣に対する誤解であると言われます。
◇生体を「弱化」させる「誤った生活の持続」を切り替えよう!◇
既に述べた「気性」について、もう少し解説しておきます。
「気」の本漢字(旧漢字)は「氣」と書きます。「氣」は、「米」を炊くときに湯氣(ゆげ)が上がる様子を表しています。湯氣は確かに存在するのだから、氣は有るのか無いのか分からない曖昧(あいまい)なものではなく、はっきりと実在しているエネルギーを意味します。
心身の異常を起こす原因に、病氣に対する迷信と、それに囚われた生活があるのだそうです。迷信とは、病氣を敵視することであると。
「迷信とは、生命の行っている正当防衛であり調和回復方法であるところの病氣や苦しみを、不必要なもの、悪いもの、敵なるものと思うことである。病苦のないのを健康或いは悟りだと信じているから、そう思うのである。迷信にとらわれた心身は正見することはできない。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.128.)
特に慢性的な症状の場合ですが、「自分は病人である」という強い思い込みによって、“病人人生を定着”させてしまっていることがあります。そういうときは、まず病人であるという心の状態から変えていかなければ、決して救われないというのが沖正弘導師の教えです。
異常を作り出す元となるのが、病氣に対する迷信です。それについて、沖正弘導師は次のように述べています。