其の百五十五 国家に生ずる深刻な問題に対して、不感症な国民ばかりとなったら危ない!

異常は、普段とは違う状態のことです。人体であれば熱や痛み、倦怠感などの違和感がそれにあたります。それらは辛い症状ですが、直ちに(悪でしかない)病氣なのかというと、決してそうではないと沖正弘導師は説きます。

違和感のある症状は、心身のバランスを回復させるためのものであり、「健康を維持しようとする働きの現われであ」り、体内に起こっている「治す力の働いている姿である」とのことです。

「異常の生じたことは病気ではないのである。これはバランス回復運動である。健康を維持しようとする働きの現われである。内の治す力の働いている姿である。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.129.)

そうなりますと、いろいろと生ずる症状を、ただ“敵視”しているだけでは真の解決にならず、症状の「意味」を受け取ることが大事になります。この異常は、いったい自分に何を教えているのかと。

「異常が生じたということは、誤った生活をしていたということを示しているのである。だから病状を消し去ることを考えるより、その指示に基いて、正しい生き方の工夫を行うべきである。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.129.)

異常による違和感、諸症状の意味、それらは生活に何らかの誤りがあるということのメッセージです。そうであれば、単に「病状を消し去ることを考える」ことよりも、食事や呼吸、考え方や在り方など、生活の修正や工夫を図ることのほうが大切になります。

なぜなら、現れている異常は、それがそのまま病氣というわけではなく、治す力が働いている姿に他ならないからです。

「異常の現れている間は病気ではない。なぜならば、この時には治す力が働いているからである。例え表面的には病んでいようとも、平衡回復能力さえ働いていれば、その生命の働きは健康である。われわれは体の現われでなくて、その奥の生命の働きの如何をみるべきである。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房pp.129-130.)

たとえ現象的には病んでいるようであっても、バランス(平衡)回復能力、すなわち自然治癒力や免疫力が働いている限り、生命体の働き自体は健康なのだと沖導師は説きます。

従って、表面に現れている症状に囚われることなく、その奥に宿されている「生命の働き」が、しっかり機能しているかどうかを見なければならないのです。

そして、本当の意味の病氣は、その「生命の働き」が衰えているときを指しているのだと。

「この生命の働き(平衡回復の働き)の衰えている時がつまり病気である。

例えば、毒が入ったのにもかかわらず吐き出すことも、下痢させることも忘れている胃腸である。ゴミが入ったのに、くしゃみをだせない鼻、涙のでない目である。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房pp.129-130.)

「生命の働き」が衰えますと、毒を吐き出せず、体に合わないものを食べたのに下痢を起こせず、異物が鼻や目に入ったのに、それをくしゃみや涙で排出出来ません。そのような異常に対応不能な状態が、本当の意味の病氣ということになります。

これを国家や国民に置き換えれば、危機を危機と感じている間は、まだ病氣ではないとも判断されます。ところが、国家に生ずる深刻な問題に対して不感症な国民ばかりとなったら、それはもう重篤な社会病理に冒されている状態と言う以外にありません。(続く)