其の百十七 兼好法師の繊細な感性と豊かな表現力は、一体どこからきたのか?

『徒然草』には、兼好法師と関わりのあった女人との思い出話や、恋愛観についての見解が書かれています。それらを読めば、兼好法師はチョイ悪オヤヂであるという見方が出てくるのも当然でしょう。しかし、『徒然草』各段のテーマは多岐に亘っており、達人の在り方や武芸者の心得、勝負に勝つコツなど、硬派な内容も沢山載っています。

続きを読む

其の百十六 広く学び、自分の身体を潜らせ、実践や体験を踏まえる…

心に主を宿す。それは、自分が自分の主人公になるということです。そのためには、広く学ぶということ、自分の身体を潜(くぐ)らせながら学ぶということ、実践や体験を踏まえつつ学ぶといったことが必要になります。

続きを読む

其の百十五 心の中に、主体となる魂(たましひ)を宿そう!

鏡は、何でもありのままに映すので、嘘偽りの無いマコトの象徴とされてきました。ところが、兼好法師は鏡というものを、己自身(主体性)を持っていないがために、いろいろなものに入り込まれてしまうことの例えに挙げました。

本来、そのままの姿を映す鏡のように、囚われや拘(こだわ)りの無い心でいてこそ、感性が素直に働き、外界からの情報を正しく受け止めることが出来るはずです。

続きを読む

其の百十四 人が住まなくなった家には、いろいろなものが入って来る…

家というものは、誰も住まなくなると傷み易くなります。雑草が生い茂り、屋根や壁が傷み出せば、暗い雰囲気が漂ってきます。

閉店になった建物なども、灯りが消えて人の気配も無く、見た瞬間冷たい感じがして、ゾクッとさせられる場合があります。賑やかだった頃の明るい雰囲気はどこにも無く、そこにはもう氣(エネルギー)が起こされていません。

続きを読む

其の百十三 刺々しさが次第に薄れ、奥深くから氣(オーラ)が滲み出てくる!

あまり便利すぎると、却って「人の力」が鈍ることがあります。ナビに頼るほど勘が鈍り、消費期限の日付だけ信じるようになれば嗅覚が鈍ってしまいます。
昔の人は、食べても大丈夫かどうかを匂いで自己判断していたものです。

続きを読む

其の百十二 体裁をいちいち気にしない質朴さがいい

平宣時(のぶとき)は、鎌倉幕府初代執権・北条時政の曾孫にあたります。宣時は幕府の執事として、五代執権の北条時頼に仕えました。だから時頼と宣時は、上司と部下の関係にあります。

その宣時が、「老いてから昔語りを」しました。それによれば、夜のまだ更けない頃に時頼の使いがやって来て、「今から、こっちへ来ないか」と誘われたとのこと。

続きを読む

其の百十一 おいっ、今から出て来ないか…

「おいっ、今から出て来ないか…」。上司からそのように誘われて、とにかく普段着のまま出掛けて一緒に酒を飲む。そんな突然の招集に参上するのも、部下の責務であると同時に一つの楽しみであった。

少なくとも昭和はそういう時代だったし、平成を生きた者にも、その雰囲気は分かると思う。それがなんと、鎌倉時代にもあったというから面白い。

続きを読む

其の百十 どんな事も、もうこれで万全と思ってはいけない…

「自分自身をも他人をも頼りにしない」という兼好法師の教えと同様の見解を、江戸時代初期の大学者である山鹿素行が述べていました。(下記は佐佐木杜太郎著『現代人の山鹿兵法』久保書店165頁~166頁を参考にしています)。

続きを読む

其の百九 宇宙や天から、大切な「声」が下りて来るようになる!

《徒然草:第二百十一段》其の二
「人間は天地の霊長である。天地には限りが無い。人間の本性は、どうして(この限りの無い天地)と異なることがあろうか。

寛大にして窮まることが無ければ、喜怒(哀楽の感情)も妨げとならず、(外界に存在する)物によって煩わされることも無くなるだろう。」

続きを読む

其の百八 常に全体観に立って、物事を綜観(そうかん)していこう!

論理は本来、全体を観ることで成り立ちます。部分的・断片的で根拠の希薄な情報に踊らされ、自分や自分たちにとって都合のいい意見にだけ耳を傾け、異なった意見を頑(かたく)なに拒否し、反対意見を唱える者たちを一方的に見下すようになりますと、もはや対話は不可能です。

続きを読む