鏡は、何でもありのままに映すので、嘘偽りの無いマコトの象徴とされてきました。ところが、兼好法師は鏡というものを、己自身(主体性)を持っていないがために、いろいろなものに入り込まれてしまうことの例えに挙げました。
本来、そのままの姿を映す鏡のように、囚われや拘(こだわ)りの無い心でいてこそ、感性が素直に働き、外界からの情報を正しく受け止めることが出来るはずです。
しかし、心に主体性が無いままでは、鏡が何でも映してしまうように、いろいろなものが次々心の中に入り込んで来てしまいます。気を付けないと、それによって精神が錯乱状態に陥ることにもなりかねません。
《徒然草:第二百三十五段》其の二
「何も無い空間は、よく物を容れる。我々の心に、いろいろな妄念が勝手に来ては浮かぶのも、心という主体が無いからであろうか。心に主体があったなら、胸の内に沢山の妄念は入って来ないだろう。」
※原文のキーワード
何も無い空間…「虚空」、いろいろな妄念…「念々」、勝手に…「ほしきままに」、心という主体…「心というもの」、無いからであろうか…「なきにやあらむ」、主体…「主(ぬし)」、あったなら…「あらましかば」、沢山の妄念…「そこばくのこと」、入って来ないだろう…「入り来たらざらまし」
兼好法師の言う「心に主体が無い」状態というのは、価値観や信念が無いために、外界からの情報にいつも振り回されている様子のことでしょう。それは「何も無い空間」のように「よく物を容れ」、「いろいろな妄念が勝手に来ては浮かぶ」ことになってしまいます。他人の言動に左右され過ぎる原因は、心に主体が無いところにあるというわけです。
心はそのままでは、コロコロと揺れ動いてしまう不安定さを持っています。それを安定させるためには、心の中に主体となる魂(たましひ)を宿す必要があります。
タマシヒは「玉し霊(び)」のことで、心の主であるとともに、玉のように円満にまとまっている生命の本源と考えられます。それが心に宿されていれば、つまらないことに翻弄されたり、どうでもいいことで悩んだりすることが減っていくに違いありません。(続く)