家というものは、誰も住まなくなると傷み易くなります。雑草が生い茂り、屋根や壁が傷み出せば、暗い雰囲気が漂ってきます。
閉店になった建物なども、灯りが消えて人の気配も無く、見た瞬間冷たい感じがして、ゾクッとさせられる場合があります。賑やかだった頃の明るい雰囲気はどこにも無く、そこにはもう氣(エネルギー)が起こされていません。
《徒然草:第二百三十五段》其の一
「主人のいる家には、関係の無い人が勝手気ままに入って来ることはない。ところが、あるじ(主)のいない所には、通行人がみだりに立ち入り、狐や梟(ふくろう)のようなものが人の気配(けはい)に妨げられないから得意顔で入り込んで棲(す)みつき、こだま(木霊)などという奇怪な現象も現れるのである。
鏡には(鏡固有の)色や形が無いので、どんなものの姿も、やって来ては映る。鏡に色や形があったならば、(それらは)映らないことだろう。」
※原文のキーワード
関係の無い人…「すずろなる人」、勝手気ままに…「心のままに」、通行人…「道行き人」、人の気配…「人気(ひとげ)」、妨げられないから…「せかれねば」、得意顔で…「心得顔に」、入り込んで棲みつき…「入(い)り棲み」、奇怪な現象…「けしからぬかたち」、どんなものの姿…「よろづの影(かげ)」、あったならば…「あらましかば」、映らないことだろう…「映らざらまし」
その家に住人がいれば、無用な人が勝手に侵入して来ることはありません。ところが、空き屋になると、通行人が訳も無く立ち入ります。狐や梟などの動物も、住人の気配に邪魔されないから我が物顔で棲みついてしまいます。あるいは、木霊(こだま)という木の精による「奇怪な現象も現れる」ことになります。
木霊は、木の霊魂のようなものです。手入れされなくなった樹木は、どんどん大きくなって木霊となり、人に何らかの働き掛けをする場合があると。神社の大木に注連縄が巻かれているのは、木霊となり神木となった樹木の「見えない力」を畏れ、その霊威の尊さを崇(あが)めているからでしょう。
古来、人の姿や景色をありのままに映してしまう鏡に、人々は不思議な力を感じていました。ありのままに映す鏡の前では、隠し立ては通用しない。嘘もつけない。それで、鏡はマコト(誠)の象徴とされたわけです。
鏡は、なぜ何でも映してしまうのでしょうか。勿論それは、鏡にぶつかった光を、殆ど全て反射させてしまうからです。でも昔の人は、鏡に固有の「色や形が無い」からだとも考えました。それで「どんなものの姿も、やって来ては映る」ことになると。もしも「鏡に色や形があったならば」、つまり鏡が鏡面になっていないで色付けされていたり、文様が彫られていたりすれば、当然のこと何も「映らないこと」になります。(続く)