平宣時(のぶとき)は、鎌倉幕府初代執権・北条時政の曾孫にあたります。宣時は幕府の執事として、五代執権の北条時頼に仕えました。だから時頼と宣時は、上司と部下の関係にあります。
その宣時が、「老いてから昔語りを」しました。それによれば、夜のまだ更けない頃に時頼の使いがやって来て、「今から、こっちへ来ないか」と誘われたとのこと。
相手は上役の、しかも最高権力者である執権ですから断るわけにはいきません。とにかく急いで参上しますと答えたものの、困ったことに着ていく服がありません。武士の平服である直垂(ひたたれ)の、パリッとした服が見当たらないのです。直垂は、今風に言うならスーツにあたるものです。
きちんとした直垂を探していたところ、そこへまた使いが来ます。「もしかして直垂が無いのではありませんか。もう夜だし、異様な格好で構わないから早く来てください」とのことです。異様な格好で構わないというのは、ジャージでも何でも良いといった感じでしょう。
それで宣時は「くたくたになった直垂」を着て、「普段着のままに参上」しました。すると時頼は、お酒を入れる銚子と杯を「手に持って出て来られ」ます。
時頼は、「この酒を一人で飲むのが淋しいから誘ったのだ。ところが肴が無い。もう家人は寝静まっている。屋敷中を探せば何かあるだろうから、そこらあたりを探してみてくれないか」と言われます。
そこで、照明用具の紙燭を灯してあちこち探したところ、「台所の棚に味噌を少し盛ってある小土器(こがわらけ)を見付け出し」ました。こんなものならありましたと申し上げたところ、「おおっ、それで十分だ」とのお返事。
そうして何度も杯を交わし、時頼は「すっかり興に入られ」ました。宣時によれば「その当時は、このように(質素で)あった」とのことです。
この時、時頼と宣時の間で何が話されたかは分かりません。政治上の重要な話し合いをしたというよりは、遠慮の要らない者同士で一緒に酒を楽しんだ場面なのだろうと推測します。
そうであれば、宣時は大した理由もなく上役に呼び出されてしまったわけですが、さしたる理由も無く声を掛けて貰え、気さくに会話を楽しんでいただけるというのは、随分誇らしいことではないかと思われます。心を通わせる話し相手に選ばれ、とても頼りにされているということですから。
時頼の頃は、執権政治の最盛期でした。上手くいっているときの指導者には、プライベートにおいて、このように体裁をいちいち気にしない質朴さがあるようです。(続く)