病氣は悪いもの、病氣の原因は外にある、治療は外から処置するしかない。
これらは、病氣に対する「通常の考え方」です。
病に冒されれば、辛かったり痛んだりするのですから、病氣を「悪」と捉えるのは当然のことです。病原菌などは外からやって来るのだから、それを如何にして追いはらうかに苦心した歴史があります(疫病退散・病魔退散)。
そして、病氣は放っておいたら悪化するだけだし、自力ではもう救われないのだから、あとはもう名医や妙薬を見付け、ひたすら外から有効な治療を受けるしかないと他力にすがります。
しかし、沖正弘導師は、それらは病氣に対する誤解であると言われます。
「病気を悪と、また不必要と思い恐れたり、のがれたいと思っている。原因がうちにあるのを知らないで、外にあると思い、治療法(解決法)もまた外にあると思っているのが誤りである。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.129.)
そもそも、回復力や治癒力は自分の「内」にあるのであり、それらは使わないと弱くなります。自分という生命体を弱者扱いして他を頼り、病氣を悪であるとのみ考え、これと闘うしかないと思って力み、自分に合った治療法が見つからなくて焦り、症状の悪化を恐れ、なかなか治らない現実に失望いたします。
「生命に回復への力があることを忘れ、自己に力の与えられていることに気付かず、学問上の人為にたよって、用心とか養生と称して、自分のうちにある使わねば弱くなる力のことを忘れて他に頼より、そうして自分の生命を弱者扱いをしているのである。他にたよれば自力の弱くなることを気付かぬ生活をしている。病気と闘わねばならないと思って、力んだり、治療を追って、焦ったり、恐れたり、或いは失望したりしている。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.129.)
そうして起きている間、瞬時の休みもなく「病氣に心を集中」することになります。そうなれば、肉体は精神の影響を強く受け、その生理状態は病的傾向に向かう以外になくなってしまいます。
「病人は習慣的に病気に心を集中しているから、その生理状態は心の集中状態に左右されて、病的傾向に働らくのである。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.129.)
病氣は決して悪いものではなく、間違った生活を変えさせるための警告。病氣の原因が外から来るとしても、それを受け入れてしまうのは、あくまで自分。
外から手を加える治療法は、内在する自然治癒力を引き起こすためのきっかけに過ぎず、治る力は常に内にある。
こうした考え方に立ったときに、病氣は善でもあり、その原因は自分がつくっているのであり、病氣を治す働きは自分の内に備わっているという事実が見えてきます。
この考え方は、国家の病を治すときの心得にも通じることでしょう。国家に生ずる様々な問題は、社会に間違いがあるということを国民に気付かせるための警告であり、問題の原因は国民自身の在り方にもあり、単に政治的に外から手を加えても(多くは)対症療法にしかならず、(結果的に)国民を過保護すればするほど自立力(生活における免疫力)は弱まってしまうというわけです。
(続く)