人をなぎ倒して自分は勝ち、人に損をさせて自分は得をし、人を蹴落として自分は偉くなるといった在り方では、結局本当の喜びや満足感は得られないということを述べました。そういう勝ち方や儲け方、出世の仕方の場合、勝ちたい・儲けたい・偉くなりたいという力みが強まる一方ですから、どこかに無理が生じます。沖導師は、そのことについて次のように教えました。
密教ヨガに学ぶ神人合一の人生
其の六十六 自分だけ勝って、得して、偉くなる。それで何が残るのか?
本当の「自由」、それを自分のものにするには「自らに由(よ)る」ところの主体性が不可欠です。それと共に、何物にも囚われない自然体があれば、人として素直で自由な姿がもっと現れ出ることでしょう。
「ヨガでは、無願、無計、無跡の心構えでやれと教えている。それはこうしてやろうとか、ああしてやりたいとか思わないで、こうすべきが損だとか得だとかを考えないで、勝つためにやるとか認められたいためにやるとか、を思わない心でやることである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房69頁)
其の六十五 まさに「強い意志」とは、原点からブレない意志のこと
ちょっとした事ですぐ嫌になる、飽き性でなかなか続かない。そういう性向は、(過去の失敗体験等の影響による)無意識の働きによって、意識(顕在意識や表層意識)が固定化されているからだと思われます。沖導師は、この無意識をきちんと支配するよう促します。
其の六十四 体で考えるとはどういうことか?
頭で考えないで、体で考えよ。それは一体どういうことでしょうか?
「体で考えるということは、実践してみることであって、体には意識で支配できる部分とできない部分とがある。そうしてこの二つの部分が相互に影響しあって、人間の日常生活にあっては、この支配できない部分が、支配できる部分に対して大きな影響力をもっているのである。
其の六十三 自分を動かしている無意識を、どうコントロールするか…
では、この自分を動かしている無意識を、どのようにコントロールすればいいのでしょうか。沖正弘導師の教えの続きをご紹介します。
「ここで課題となることは、この無意識をどのようにして支配すればよいかということである。
其の六十二 人間関係において、距離が近付くとダメになるというタイプ…
何を選び、どう動き、いかに生きるかを決めるのは、実は無意識であるという教えの続きを述べていきましょう。
「こうしたことがわかることは、自己の思考と行動を支配しているものは、この内在して、せしめている働き、つまり無意識だということをさとることなのである。
其の六十一 同じ事を体験しているのに、人によって反応が違うのはなぜか…
何を選び、どう動き、いかに生きるか。それを決めるのは、実は「無意識」です。表面的な意識よりも、深いところにある無意識が元になっている場合が多いと。
そもそも一つの現象に接しているのに見方が人によって異なり、同じ出来事に遭遇しているのに人それぞれ反応が違うのは、無意識の領域に存在している「何か」が個々別々だからです。
其の六十 自分しかいなくなったとき、身の振り方は二つあった…
筆者の講義内容の中に、文明論(文明法則史学)や大和言葉(国学)があります。どちらも立派な師匠に付いて学んだものの、いつもおかしな質問をしてしまう私は、決して優秀な弟子ではありませんでした。
其の五十九 損か得か、好きか嫌いか、成功か失敗かといった心配の種に心奪われる…
心はコロコロ動く。だからココロだという語源説があるくらい、「動かすまいと思っても動いてしまうのが心で」あり、コロコロ動くのは「何かに心がとらわれてしまうからで」す。
其の五十八 講演を仕事にし始めた頃、直前に緊張して貧乏揺すりが止まらなかった…
「無の境地」とは、何にも囚われることなく、ひたすら無心になっている状態のことです。でも、簡単にその境地に至れるわけではありません。沖導師は、そのために「心を動かさない練習を積むこと」が必要であるとし、そうした状態を「不動心、ニルビカルバ、サマージ」と呼びました。