本当の「自由」、それを自分のものにするには「自らに由(よ)る」ところの主体性が不可欠です。それと共に、何物にも囚われない自然体があれば、人として素直で自由な姿がもっと現れ出ることでしょう。
「ヨガでは、無願、無計、無跡の心構えでやれと教えている。それはこうしてやろうとか、ああしてやりたいとか思わないで、こうすべきが損だとか得だとかを考えないで、勝つためにやるとか認められたいためにやるとか、を思わない心でやることである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房69頁)
「無願」は何も願わないこと、「無計」は何も計らわないこと、「無跡」は後へ何も残さないことです。私的な願望を持たず、自己中心的な企(たくら)みをせず、何の後腐れも起こさない。そういう境地が真の自由です。
即ち、思い付きで「こうしてやろう」という恣意(しい)を持たず、小賢しい損得勘定をせず、表面的な勝ち負けに拘(こだわ)らず、有名になりたいとか、偉くなりたいとかという我欲を「生き方の原点」に置かないことです。そうして、一切の私心を解き放った状態に至ることによって、大切な「無意識」を起こしなさいと。
しかし、それは決して簡単なことではありません。人は誰でも、幼い頃から誉められたり認められたりすることで喜びと幸せを感じてきました。ですから、人に勝ちたいし、誰よりも得したいし、もっと偉くなりたいという気持ちが、意識の中に強くすり込まれています。それらの意識を、いきなり否定され、直ちに捨てろと言われても、どうしようもないのが当然です。沖導師の教えは続きます。
「前に述べたように無意識は練習の産物であるから瞬間々々の自分の思考内容を厳重に取締らなければならない。つまり、瞬間々々の思考と行動傾向の累積したものが自己の無意識の内容になるわけであるが、われわれは平常この間の消息に注意していないのである。躾とか教育や、環境の重要性はここにあるのであって、人はその環境の産物であるという意味もここにあるのである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房69頁)
勝って、得して、偉くなる。いかなる瞬間も、それら以外に何も考えないで行動している自分自身の「思考内容を厳重に取り締まる」ためには、「躾とか教育、環境」が必要だというのです。
それは、勝つといっても卑怯な勝ち方では、全然名誉や誇りにならないということ、得するといっても誰かを騙した上での得の仕方では、結局後になって自分も行き詰まるということ、偉くなるといっても地位や立場に応じて徳が高まっていかないと、忽ち身を滅ぼしかねないといったことを、ちゃんと教えられていなければならないということでしょう。こうした生き方や在り方の軸になる価値観を養っておけば、表面的な結果や数字、肩書きに囚われることが減っていきます。次も、沖導師の言葉です。
「ヨガでは、無意識のことを習慣意識ともいうが、人間は自己の習慣どおりに思考し、行動するものであって、よい心身の習慣を自分のものにするというのが、ヨガ修行の眼目なのである。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房69頁)
人をなぎ倒して自分は勝ち、人に損をさせて自分は得をし、人を蹴落として自分は偉くなる。そういう次元を超えないと、本当の喜びや満足感は得られず、心は空しく表情は険しくなるばかりです。まわりに残っている人はつまらないイエスマンばかりでしょうから、孤独感はどんどん募っていくことになります。(続く)