「無の境地」とは、何にも囚われることなく、ひたすら無心になっている状態のことです。でも、簡単にその境地に至れるわけではありません。沖導師は、そのために「心を動かさない練習を積むこと」が必要であるとし、そうした状態を「不動心、ニルビカルバ、サマージ」と呼びました。
「不動心」は心がふらふらしない状態、「サマージ(三昧)」は心が動揺することなく集中している状態、ニルビカルバ(パ)は対象を意識することで一心となった状態を指しています。いずれにせよ、ふらつくことなくどっしりとしており、それでいて、しなやかな柔軟性を伴っている状態が「無の境地」ということになります。
筆者は、講演や講義を仕事としています。振り返れば、人前で話すことを仕事にし始めた頃、講演の直前に緊張感が高まってしまって、じっとしていられないことがよくありました。お馴染みの受講者を相手に話す勉強会なら大丈夫でも、招かれて講演する会の場合は、知らない人ばかりが相手だから平常心になれなかったのです。
いざ講演の日を迎え、会場に到着します。控え室に案内されて一人で待機していますと、椅子に座れば貧乏揺すりが止まらず、立ち上がってみてもドキドキ感は高まるばかり。仕方ないから「出番です」という呼び出しがあるまで、控え室に用意されていた机の周りをぐるぐる歩き続けていたことがありました。
それが、いつの間にか講演前に緊張するということが無くなっていき、現地に向かう電車等の中で、うとうと昼寝すら出来てしまうようになったのです。一言でいえば、その変化をもたらしたのは「慣れ」でした。
何度も講演を重ねていくうちに、だんだん重心が下がってきて不動心に近付いたというわけです。やがて筆者の話で会場全体を一つに包み込むことが可能となり、ジョークもそれなりに言えるようになっていきました。
本当に「動かすまいと思っても動いてしまうのが心で」す。だから、焦るほど上手くいかなくなります。「それは何かに心がとらわれてしまう」ところに原因があります。そうであれば、一体自分は何に囚われているのかを冷静に知る(分析する)ことが、「無の境地」に向かう一つの道筋となるでしょう。(続く)