其の六十 自分しかいなくなったとき、身の振り方は二つあった…

筆者の講義内容の中に、文明論(文明法則史学)や大和言葉(国学)があります。どちらも立派な師匠に付いて学んだものの、いつもおかしな質問をしてしまう私は、決して優秀な弟子ではありませんでした。

文明論にも大和言葉にも、もっと優れた先輩たちが揃っていました。それなのに、結局私が後継者となってしまいます。それは、先輩たちがだんだん遠のいていき、後を継ぐのが自分しかいなくなったからでした。

「誰も継がないのなら、とにかく自分がやるしかない。いずれ優秀な人が出てきたら、その人に任せたらいい。それまでは自分がやろう。誰もやろうとしないからこそ、この私がやるのだ!」と腹を括ったわけです。

自分しかいなくなったとき、身の振り方は二つありました。自分も離れるという選択肢と、自分だけは残るという選択肢です。筆者は、後者を選びました。文明論も大和言葉も、どちらも今後の日本と世界にとって、極めて重要であると確信していたのが理由です。

同じ現象に対して、進むのか退くのか、右に行くのか左に行くのか。それを決めるのは自分です。正確には、自分の深いところに存在する「無意識」です。沖導師は、思考と行動を支配しているのが、無意識の働きだと教えています。

「人間は普通、表面上に現れている意識を心と思い易い。そしてこの無意識の存在についてはあまり気づかないのである。だが、一つの現象に対しても人により色々な見方、考え方をしているように、このせしめている働きが無意識なのである。

人間は、こう思おうと思ってから、そう思うのではなくて、ついそう思ってしまう。そう思うまいと思ってもそう思ってしまうのである。

体にあってもその通りで、体は意志のままには動かない。病気になろうと思って病いになる人はなく、病いが現れてきてしまうのである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房67頁)(続く)