心はコロコロ動く。だからココロだという語源説があるくらい、「動かすまいと思っても動いてしまうのが心で」あり、コロコロ動くのは「何かに心がとらわれてしまうからで」す。
その「何か」の中に、「胸中を去来する利害損得、好き嫌い、成るか成らぬかという対立する観念が」あります。私たちは常に、損得や好悪、成否などに囚われて緊張し、心が揺れ動き、「ここでやれば勝てるとか、売れるとか、ここがチャンスだとか、だめらしいとか、ここでやれば認められるとか、ここで失敗すれば駄目になってしまうとか、叱られたら困るとか、ありとあらゆる対立観念が無意識のうちに去来して」います。
そして、その中の「最も強力なものにひっかかってしまうわけで」す。この「ひっかかり」が繰り返されて固定観念化しますと、いわゆる執着心となっていき、はからい(計らい)が起こります。はからいは自己の判断による行動や処置のことですが、ここでは心がある方向に囚われていく様子を意味しています。
やがて「このはからいに自己が支配されて、今度はこのはからいに応じた手をつかいはじめ」ます。もしも「はからいが間違ってい」ますと、「次ぎから次ぎへと誤まりをおかす悪循環をくりかえ」してしまうことになります。
こうして、損か得か、好きか嫌いか、成功か失敗かといった心配の種に心奪われ、執着心にすっかり覆われます。それによって偏った行動(はからい)が起こり、その「はからいが間違ってい」るほど、誤りの悪循環から抜け出せなくなるのです。
売上げを増やすためなら客を騙そうが、環境破壊につながろうが全く構わないという経営、選挙に勝つためなら金で釣ろうが、怪文書をばらまこうが何をしても構わないという政治活動などが、その例でしょう。やがて、心がマヒしていき、間違いの悪循環に頭までどっぷり浸かります。
そういうことから、「自己を支配する本体、自己を害する本体は自己の中にあるということを」、沖導師は指摘されたのでした。(続く)