人をなぎ倒して自分は勝ち、人に損をさせて自分は得をし、人を蹴落として自分は偉くなるといった在り方では、結局本当の喜びや満足感は得られないということを述べました。そういう勝ち方や儲け方、出世の仕方の場合、勝ちたい・儲けたい・偉くなりたいという力みが強まる一方ですから、どこかに無理が生じます。沖導師は、そのことについて次のように教えました。
「勝負事をするとき、闘わなければならないのは相手ではなくて、自分なのである。勝負にひっかかっている心は瞬間々々にさまざまな動き方をしてしまう。相手を倒そうと思っても倒せるものではなく、またこの球を打ってやろうと思っても打てるものではない。
多くの人はかえってこの心の動きで負けてしまう。儲けてやろうと思ってやるとかえって損することが気がつかないでいる。自分でこういう手を使ってやろうと考えてそのとおりに行くことは殆んどないのではないか。いや、瞬間的変化の中に立った時には考える余地は全くない筈である。
うまく行くのはたいてい無心に、自然にやった時である。そうして後になって、あのようにやったからうまくいったのだと気付くのが本当である。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房69頁~70頁)
敵に勝つには味方に勝て、味方に勝つには自分に勝て、自分に勝つには心(氣)が体に勝てという心得が、武士道書の『葉隠』にも書かれています。「心が体に勝つ」というときの心は、勝敗に囚われ、勝ちを焦っては揺れ動き、定まることのないコロコロした心ではなく、余分な力の抜けた自然体でいるほうの心です。
でも、大抵は前者のコロコロした心に揺り動かされています。格闘技で相手を倒そうと力めば、パンチや突きが空回りしてしまう。球を打とうと意識すれば、却って空振りしてしまう。それは、勝とうという気持ちが高ぶったために、心が体に負けているからでしょう。それと同様に、儲けてやろうと思うと損をし、いい手を使って巧妙にやろうと考えて取り組むほど綻(ほころ)びが生じてしまうのです。
しかし、中には儲けてやろうと思って儲けることが出来、巧みにやろうと考えてその通りうまくやってしまう人もいます。人を欺(あざむ)き、人を巻き込むことの巧者です。そういう人の場合、儲けてやろう、巧みにやろうという気持ちを根底に持ちながらも、表面にはそれを出さないから、なかなか真意を覚られません。欺(だま)すことに「演技慣れ」しており、相手を安心させてしまう落ち着きがあるのでしょう。
それはそれで修練された状態なのでしょうが、長期的に見れば、やはりうまくいきません。いろいろな人を失望させ、怨みを買い、敵を増やしつつ巧みにやってきたのですから、次第に行き詰まることになって自滅は避けられません。
とにかく、実戦の場は「瞬間的変化の」連続です。そこでは、ゆっくり「考える余地は全くない筈で」、「無心に、自然にや」るしかないのです。場を重ねれば、腰(丹田)を中心に全身が統一され、余分な力が抜けていき、囚われや拘(こだわ)りも小さくなります。
そうして、無欲・無心に対応するうちに物事が好転し始め、振り返ったら問題を乗り越えていたということになるのでしょう。その結果、「後になって、あのようにやったからうまくいったのだと気付く」ことにもなるというわけです。(続く)