人にはそれぞれ、人生の第一義というものがあります。第一義とは、何をおいても大切にすべき事柄で、天命(天から受けた我が使命)や志がそれにあたります。
それが明確な人。ぼんやりしていてよく分からない人。意識の中ではかなり強くなっていても、まだ抽象的にしか説明出来ない人。具体的に言えるようでいて、会う度にコロコロ変わる人など様々です。
人にはそれぞれ、人生の第一義というものがあります。第一義とは、何をおいても大切にすべき事柄で、天命(天から受けた我が使命)や志がそれにあたります。
それが明確な人。ぼんやりしていてよく分からない人。意識の中ではかなり強くなっていても、まだ抽象的にしか説明出来ない人。具体的に言えるようでいて、会う度にコロコロ変わる人など様々です。
何だろうとピンと来たら、早速調べてみることが大切です。それが、たとえ他人から見たらどうでもいいことであっても、自分の直感においてピンと来たら、後回しにしないで直ぐ調べよと。
兼好法師は、離れた場所の例えとして、東山と西山の話を出しました。東山に到着しながら直ちに引き返し、真反対の西山に向かうというのは、距離が離れていて簡単なことではありません。しかも、本来「東山に急ぎの用事が」あったのですから、それを済ませないで引き返すという豹変(ひょうへん)ぶりは理解に苦しみます。
京都の東山というのは、どれか一つの山というわけではなく、京都の東方の山一帯を指しており、特に祇園より南の地をいうとのことです。寺社でいうと、知恩院、八坂神社、建仁寺、高台寺、清水寺、智積院、蓮華王院、豊国神社、東福寺、泉涌寺のあたりになるかと思います。筆者の活動母体である綜學社の研修所(といっても小さな町家です)が東山五条にあるため、これら一帯はよく散策しております。
二つの道の、どちらかを選ぶ。そうしないと、両方とも失ってしまう。そういう究極の選択が筆者にもありました。
松下政経塾を28歳で卒塾した私は、生計を立てるため、鍼灸指圧師の資格を生かして治療院を開業。業界誌から2回取材を受けるほど実績を上げていましたが、30代前半から次第に講義・講演が増えてきて臨時休診が多くなり、もうこれ以上二股は続けられないと考え、思い切って治療院を後輩の鍼灸師に任せて隠退しました。それは30代半ば頃のことで、そのとき屋号から患者、残っていた消毒用エタノールに至るまで全部後輩に譲りました。
兼好法師は例え話が上手です。この段では、碁に例えながら選択と決断の重要性を述べています。碁には「眼(め)」があります。眼は自分の碁石で囲んだ場所のことで、こちらの眼を増やし、相手の眼を減らすよう競技します。
どちらか一方に決められない状況を表す言葉に「究極の選択」があり、それには二つのタイプがあるようです。
その一つは、二つの選択肢があって、どちらにもメリットがあるので一方に決められない場合です。AとB、どちらも魅力的で捨て難いために迷っている状態です。
もう一つは、二つの選択肢の、どちらにもデメリットがあるので一方に決められない場合です。AとB、どちらを選んでも損を被ることになることから動けなくなっている状態です。
自分が取り組んでいる事を一つにまとめ、融合と安定を起こすために行うのが一束統合です。その別法に、時間軸による「一本統合」があります。これは、これからの人生を長期・中期・短期に分けた後、それらを一本に繋(つな)げていく手法です。
それを串団子(くしだんご)に例えてみます。3個の団子があり、それぞれ長期・中期・短期を意味するとしましょう。長期は人生を賭けて取り組んでいく大目標、短期はこの1年間ほどの間に実行する小目標、中期は長期と短期を結ぶ中目標(3年間~5年間くらい)です。
知が文明論、情が大和言葉、意が東洋思想や武士道。筆者の三種の講義内容を、こうして知情意で括り、さらに「綜學」という名称で「一束統合」したところまで述べました。
さて、何事も綜合的でなければ気が済まず、「どれもこれも捨てられない」タイプである筆者は、結局「一つの事さえも成就出来」ないで終わってしまうのでしょうか。そうであれば、筆者は兼好法師からお叱りを受けるしかないタイプの人間となります。