其の九十七 西洋科学の部分観では、思想形成には役に立たないだろうという直感…

人にはそれぞれ、人生の第一義というものがあります。第一義とは、何をおいても大切にすべき事柄で、天命(天から受けた我が使命)や志がそれにあたります。

それが明確な人。ぼんやりしていてよく分からない人。意識の中ではかなり強くなっていても、まだ抽象的にしか説明出来ない人。具体的に言えるようでいて、会う度にコロコロ変わる人など様々です。

いずれにしても、体は一つであり、誰だって常に一カ所にしかいられません。今どこにいて、誰に会い、何をするかを決め、時空を有効活用する上でも、第一義を意識することは重要です。

兼好法師の言う「一つの事」こそ、まさに人生の第一義でしょう。それを「必ず成し遂げようと思うなら、他の事が」中途で終わったとしても勿体ないと思ってはならないし、他人から馬鹿にされ嘲笑されても恥ずかしいと感じてはならないと言い切ります。兎に角「万事を代償としなければ、一つの大事が成るはずがない」と。

ところで、皆さんは、どんな人生の第一義をお持ちですか。それを成し遂げるため、これまで何かを捨てた経験がありますか。

筆者は17歳のとき、あるインスピレーションから東洋学の全体像を知りたく思いました。そこで“東洋を極める”ことを第一義に定め、大学進学を捨てて東洋医学の専門学校に進みました。

その選択の理由は、西洋科学の部分観で成り立っている一般大学の教科をいくら学んでも、(その時点での)自分の思想形成には殆ど役に立たないだろうという直感が元でした。そう考えて実学を求め、興味のあった鍼灸(しんきゅう、ハリとキュウ)の専門学校に進んだところ、その直感はズバリ当たりました。

鍼灸専門学校で学ぶ漢方理論や治療方法が、東洋思想の全体観や陰陽循環論などで構築されているのに対し、西洋医学の諸科目(解剖学・生理学・病理学など)はシンプル・ロケーション(専門化・部分化・局在化・細分化)が基礎になっていました。その東洋医学と西洋医学の基盤そのものの違いから多くの気付きを得、やがて提唱する綜學に繋がることになります。(続く)