兼好法師は、離れた場所の例えとして、東山と西山の話を出しました。東山に到着しながら直ちに引き返し、真反対の西山に向かうというのは、距離が離れていて簡単なことではありません。しかも、本来「東山に急ぎの用事が」あったのですから、それを済ませないで引き返すという豹変(ひょうへん)ぶりは理解に苦しみます。
せっかく目的とする家の前まで来たのに、その門をくぐることなく反対方向へ踵(きびす)を返す理由は、一体どこにあるのでしょうか。それは、東山よりも「西山に行くほうが利益に勝ると思い得た」からです。
この「利益」というのは、金銭等の損得勘定による利益とは、かなり違います。人生の岐路(きろ)にあって、今すぐ方向転換しないと後で大きく後悔するという意味での損であり、まさに十を捨てて十一を取るという場面が目の前にあります。
卜部兼好の時代、来世に救いを求める浄土信仰が国民に浸透しておりました。この世で如何に苦しもうとも、南無阿弥陀仏という称名念仏を唱えれば、来世は極楽浄土へ生まれ変わるという信仰です。
その阿弥陀如来による救いに人生最高の利益(りやく)があるのですが、出家して仏弟子となれば浄土への道はさらに近付きます。兼好法師が言う利益は、その来世に救われるという安心感にあったのです。だから、一日も早く出家せよと。
さて、我々が何か事を進めてきた場合、やっとここまで来たのだから、まず当初の用事を済ませておこう。いくらそれに勝る新たな事を思いついても、「特に日を定めては無い事だし」、一旦帰り、後でまた出直すようにすればいい。そう考えるのが、一般的な対応でしょう。
でも、そうすること自体が一つの気の緩みであり、そうこうしている間に本当にやるべき事からどんどん遠ざかっていき、気が付けば一生の緩みに繋がっていきます。それで、決断の遅れによって大事を失わないよう、よくよく恐れよ(注意せよ)と教えたわけです。(続く)