あれこれ摘(つま)み食いのように手掛けては、子供の玩具(おもちゃ)遊びのように目移りする。すぐ飽きるから、結局どれも身に付かないで終わってしまう。こんな状態では、一つもものになりません。
徒然草が教える人生の心得と勝負のコツ
其の八十六 筆者は、兼好法師からお叱りを受けるしかない人間なのだろうか?
なかなか、為すべき事を一つに定めるのは大変なことです。才能に溢れる人ほど、何でも上手にこなしますから、却って器用貧乏ともなり、結局どれも平凡の上くらいで終わってしまいかねません。そこで兼好法師は、どれが一番勝っているかについて、よく思案せよと諭しました。
其の八十五 人生の種と呼ぶべき原点が見つかれば、本氣の志が立ってくる!
誰でも、日常に追われて生きております。大抵(たいてい)の目の前に起こる出来事には、差し当たって、すぐにでもやらねばならないという緊急性が付きまといます。
日常の実務というものは、外すことの難しい必要な務めです。それに、いくら目の前の作業とはいえ、やれば達成感が生じ、心が充実します。
其の八十四 単なる生活の手段として、息子にやらせようとしたことの間違いかも
ある者が息子を法師にしようとしたところ、息子は乗馬や早歌にばかり励んでしまい、結局息子は僧侶になれないまま年老いてしまったという話ですが、本当のところ息子は僧侶になりたくはなかったのではないかと述べました。それと共に、単なる生活の手段として、息子に法師をやらせようとしたのも間違いだったのではないかと思います。
其の八十三 一番大事なことを最優先しないと、気付いたときはもう時間が残っていない
徒然草には、実話かそれに近い言い伝えが、例え話として沢山書かれています。本題に入る前に例え話があれば、読み手の気持ちがほぐれてきて、その後の話を受け入れ易くなります。第百八十八段には、次のような話が前置きとして出ています。
其の八十二 不器用な専門家と、器用な非専門家。なぜ前者が勝るのか…
不器用な専門家、器用な非専門家。これらを比べると、前者のほうが勝っているというのが兼好法師の見解です。その理由は、専門家と非専門家とでは、努力や姿勢に差があるからです。
其の八十一 すぐに身に付けてしまう者は、飽きるのも早くて長続きしない…
諸道諸芸における一流の人物が修業時代を振り返りますと、かなりの人が、始めた最初の頃は鈍くて下手であったと語ります。仲間たちに比べ、自分は随分不器用だったが、諦めることなく続けているうちに段々上手くなっていき、気が付いたら一流の仲間入りを果たしていた、などという感想を述べるのです。
其の八十 まず人間に共通した特性を知り、その上で個々の人間の天分・天性を掴め!
「吉田と申す馬乗りの」とありますが、この吉田がどんな人物かは不明です。
「吉田兼好」とも関係ありません。そもそも兼好法師の正しい姓名は卜部兼好(うらべかねよし)であり、吉田姓は捏造として、後から付けられてしまったものであることは先述の通りです。
其の七十九 事前の丁寧な点検や、用意周到な準備も、達人や名人が教える極意
達人や名人が語る「極意」などと聞くと、きっと一般の素人には及びも付かないような秘訣があり、それは神懸かっているに違いないと思われがちです。ところが、大抵は「毎日の修練を怠るな」、「工夫しつつ継続せよ」といった類の“普通の教え”であることが多いものです。
其の七十八 一人の独裁者が誕生し、取り巻きがイエスマンばかりになることに要注意!
さて、時頼の母・松下禅尼が、煤けた障子の破れを自ら小刀を使って修理されましたところ、その日の世話役としてお仕えしていた禅尼の兄・秋田城介義景が、代わりに誰か器用な者に張らせましょうと申し上げました。