なかなか、為すべき事を一つに定めるのは大変なことです。才能に溢れる人ほど、何でも上手にこなしますから、却って器用貧乏ともなり、結局どれも平凡の上くらいで終わってしまいかねません。そこで兼好法師は、どれが一番勝っているかについて、よく思案せよと諭しました。
《徒然草:第百八十八段》其の二
「だから、一生の内で、これが人生の主(しゅ)であると望んでいる事の中から、どれが一番勝っているかについてよく思い比べ、第一の事を思案し定め、その他は思いから捨てて、その一事に励むべきである。
一日の内、一時の内にも、雑多な事が起きてしまう中で、少しでも利益(りやく)になる事を行って、その外(ほか)の事はきっぱり捨てて、大事なことを急ぐべきである。どれもこれも捨てられないと心に執着していては、一つの事さえも成就出来るはずがあるまい。」
※原文からのキーワード
主…「むね」、あると望んでいる事…「あらまほしからむ事」、どれが…「いずれか」、雑多な事…「あまたの事」、起きてしまう…「来たらむ」、利益になる…「益のまさらむ」、行って…「いとなみて」、きっぱり捨てて…「うち捨てて」、どれもこれも…「何方をも」、執着しては…「とり持ちては」、成就出来るはずがあるまい…「成るべからず」
非才にもかかわらず筆者は、いろいろな事に関心を持ってしまいます。どの分野においても努力を一つに定められず、気が付けば綜合的に取り組んでいる自分がいました。
東洋思想なら儒家・道家・法家・墨家・兵家など一通り学んできましたし、武道であれば柔道・居合道・杖道・合気道・空手道など、やはり綜合的に稽古しました。
綜合的でなければ気が済まないのは、私の性(さが)なのでしょう。では筆者は、兼好法師からお叱りを受けるしかないタイプの人間なのでしょうか。(続く)