其の八十三 一番大事なことを最優先しないと、気付いたときはもう時間が残っていない

徒然草には、実話かそれに近い言い伝えが、例え話として沢山書かれています。本題に入る前に例え話があれば、読み手の気持ちがほぐれてきて、その後の話を受け入れ易くなります。第百八十八段には、次のような話が前置きとして出ています。

昔、ある者が息子を法師(僧侶)にしようとして、「仏教を学んで因果(善因善果・悪因悪果)の道理を知り、それを説教して世を渡る手段としなさい」と言いました。そこで息子は、親が教える通り説教師になろうとして、まず馬の乗り方を習いました。

輿(こし)や車(牛車)を持つほどの身分で無いのに、法要の主僧として招かれた場合、相手は迎えの馬を寄こして来るかもしれません。そのとき、馬に慣れていない桃尻(ももじり、落ち着かない尻のこと)では、落ちてしまって困るだろうと思って乗馬を習ったのです。

それから、法要の後でお酒などを勧められたとき、法師として全く無芸では、法要の施主(檀那)としては面白くありません。そう考えて、流行歌謡である早歌(そうか)を習いました。現代であれば、一曲も歌えないようではつまらないということで、カラオケ教室に通ったということでしょう。

さて、乗馬と早歌の二つの技芸が段々上達してきたところ、もっと上手くなりたいと思うようになりました。そうして、益々それらに励んでいるうちに仏法の説教を習う時間を失い、その息子はすっかり年老いてしまったとのことです。

これが第百八十八段の前置きです。可笑(おか)しくて哀れな話ですが、誰の人生にも起こりそうな事です。一番大事なことを最優先しないと、気付いたときにはもう時間が残っていないということになりかねません。

いわゆる趣味や余興の類(たぐい)を、なまじ器用にこなしてしまいますと、それを楽しんでいる間に、人生が中途半端に終わっていくというわけです。それにしても、この話の息子は、実は法師になりたくなかったのかもしれません。それで親をはぐらかしつつ、乗馬や早歌に励んだという可能性もあります。(続く)