心身の異常を起こす原因に、病氣に対する迷信と、それに囚われた生活があるのだそうです。迷信とは、病氣を敵視することであると。
「迷信とは、生命の行っている正当防衛であり調和回復方法であるところの病氣や苦しみを、不必要なもの、悪いもの、敵なるものと思うことである。病苦のないのを健康或いは悟りだと信じているから、そう思うのである。迷信にとらわれた心身は正見することはできない。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.128.)
心身の異常を起こす原因に、病氣に対する迷信と、それに囚われた生活があるのだそうです。迷信とは、病氣を敵視することであると。
「迷信とは、生命の行っている正当防衛であり調和回復方法であるところの病氣や苦しみを、不必要なもの、悪いもの、敵なるものと思うことである。病苦のないのを健康或いは悟りだと信じているから、そう思うのである。迷信にとらわれた心身は正見することはできない。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.128.)
特に慢性的な症状の場合ですが、「自分は病人である」という強い思い込みによって、“病人人生を定着”させてしまっていることがあります。そういうときは、まず病人であるという心の状態から変えていかなければ、決して救われないというのが沖正弘導師の教えです。
異常を作り出す元となるのが、病氣に対する迷信です。それについて、沖正弘導師は次のように述べています。
生命は、常に陽陰(陰陽)のバランス(調和)を維持するよう働いています。
それは「神の働き」そのものです。
「最初に無いものは、最後まで無い」。事を起こす最初に、種としての「原点」や、幹として育てていく「本氣」の志が無いと、活動は大抵(たいてい)空中分解します。
生命の働きによって、私たちは生きています。生命は、周囲から自分に及ぶ刺激に反応し、心身の調和を維持しようと努めます。こうした「反応しつつ適応」し、安定を保とうとする性質を「恒常性(ホメオスタシス)」と呼びます。それについて、沖正弘導師は下記のように説いています。
臍(へそ)下の下腹部に「丹田(たんでん)」という、心身統一の根本となる部位があります。丹田は解剖学的に確認されるものではなく、生きている人体に存在し、中心統一の働きを為しております。場所は、臍の下約5~9cm(※古来、臍下三寸にあるという)のあたりの奥になります。下記の文中の「下腹」は、丹田を指しているものと考えられます。
相手に対し、抑え付けようという意図や、使ってやろうといった下心を持つことなく、いつも自然体で接していく人がいます。そういう人が放つ人間的魅力(器量)に感化されますと、いつの間にか仲良く和合している自分がいるものです。
対人関係で“特殊”な能力を発揮する、ある中学生の男子がいます。皆が手を焼いてしまうような生徒とも、難なく仲良しになれる力を持っているのです。
その男子は、巧みな言葉で相手をねじ伏せるのではなく、威圧感で上から抑え付けるのでもなく、自然体のまま人と親しくなり、いつの間にか相手を大人しくさせているのです。先生たちは、すっかりその男子を頼りにするようになりました。
意識が現実化する現象は、日常的に起こっています。困難というべきいろいろな現象も、自分の意識の中に原因が潜んでいる場合が想像以上に多いものです。