◇儒教は本当のところ無力ではないのか、という疑問◇
中国・春秋戦国時代に登場した思想家の群れを「諸子百家」といいます。
約300年間に、ほぼ全ての学派が出尽くしました。その天才的思想家たちの先頭ランナーが、儒家の始祖である孔子です。
◇儒教は本当のところ無力ではないのか、という疑問◇
中国・春秋戦国時代に登場した思想家の群れを「諸子百家」といいます。
約300年間に、ほぼ全ての学派が出尽くしました。その天才的思想家たちの先頭ランナーが、儒家の始祖である孔子です。
◇客ではなく、金に頭を下げている◇
そのように礼は人間関係の潤滑油として大切なものですが、心のこもらない形式的な礼や、本心に反した意図的な礼になると空しいばかりとなります。
笑顔やお辞儀は、心がこもっていてこそ輝きます。
◇義に生きる人には硬いイメージがある◇
次に「義の上なるものは、何かを為して為にするところが有る」と続きます。
上のレベルであっても義に生きる人には、何かを為したときに意図的なわざとらしさが出てしまうというのです。これは、正義漢の注意点ですね。
◇「仁」にもレベルがある◇
儒家思想における一番のキーワードは、何と言っても「仁」です。仁は、人を表す「イ」と「二」が組み合わさった会意文字で、人が二人いることを意味しています。二人というのは自分と相手のことで、「明確な相手のために自分が何を出来るか」を問い掛けている漢字が仁なのです。
◇天徳の道家、人徳の儒家◇
「先天の徳」は、老子の言う「樸」、つまり荒木にあたるものです。私たちが元々持っている個性や天性、天分がその内容で、これが道家(老子などの教え)の徳の意味となります。
◇徳・仁・義・礼の順で下がっていく◇
何も為さないのに、何でも為していく。爪先立った欲が無くて静かでいるから、天下は自然に定まることになる。そういう内容を前章で学びました。続く第三十八章には、「徳」「仁」「義」「礼」などの中国思想のキーワードによって、無為自然の「道」の尊さが説かれています。
◇少し落ち着くと、たちまち志を失ってしまう◇
人間の気持ちには、本当にあてにならないところがあります。名利や作為の欲望を超え、無為自然の生き方に一度は目覚めたとしても、少し落ち着くとたちまち志を失ってしまうことがあります。飽きやすく、冷めやすく、気が付けば目の前の欲得に心を奪われ、小さくまとまってしまう自分がいるのです。
◇否定の否定による肯定◇
為さないから為さない事がないというのは、否定の否定によって肯定を導いていく論法です。「手を加えないことで一切を行っていく」という意味なのですが、こういうあり方の例はいろいろあるでしょう。(あれこれ細かく)教えないから(自分で学ぶことになって)教えられない事がないとか、(安易に薬で)治そうとしないから(自然治癒力が働いて)治らないことがないといったことです。
◇必要なときに、必要な人や物や機会に恵まれてしまう◇ 人生の達人と呼ばれる人がいます。特に意図しなくても、物事が上手く運ぶ人のことです。彼は、「これをしなければ」「あれをやらなければ」という作為の意志を超えて生きています …