其の四十三 日本社会の深層に息づいている「和の精神」こそ、不文憲法にあたるもの!

3名による会話(鼎談)は、思想的に相通じ合うこともあって、大いに盛り上がって散会となりました。3名とは、昭和天皇のご進講役であった三上照夫氏、熱心な神道家で皇宮警察警務部長であった仲山順一氏、大和言葉・国学の師である河戸博詞先生のことです。

場所は東京都国分寺の仲山邸、ときは昭和52年7月。それは、林が河戸先生と出会ってから2年後にあたります。

その日の夜、仲山氏の夢に聖徳太子が現れました。河戸先生が会話の中で、江戸時代初期の大学者であった山鹿素行について語ったことが意識に残ったようです。素行は儒学者でありながら、日本仏教の開祖とも言える聖徳太子を尊敬していたという内容です。

河戸先生は講義の中で、しばしば聖徳太子の偉大さに触れ、太子は日本最高の政治家であると称えていました。太子は斑鳩宮の夢殿の真ん中に座り、霊性を高めながら政治を練っていたということなどを話してくださいました。

夢殿は太子を供養するため、その死後に建てられた建築物とされているようですが、河戸先生は、そもそも生前に建てなければ意味が無く、英邁な太子が自ら設計されていたはずと考えておられたようです。四角形や八角形の部屋・建物は、真ん中にエネルギーが集まるから、霊覚を高めるための瞑想に向いていたのです。

聖徳太子は、生まれながらに感性や霊性の高い指導者でした。言語能力に長け、相手の主張をよく聞き分け、一度に10人の訴えを聞きながら判断に誤りが無かったことや、未来に起こることを予め察知されていたということが『日本書紀』に記されています。一度に10人の訴えを聞いたというのは、一斉に10人が喋っている状態というよりは、同時進行で10件の訴えを正確に処理したということかもしれませんが…。

聖徳太子が斑鳩宮を造営されたのは推古天皇9年(西暦601年)、そこに移住されたのは推古天皇13年(西暦605年)のことでした。推古天皇は飛鳥と斑鳩を行き来しつつ政務を執られたのでした。その往復の道は、今も「太子道(たいしみち)」と呼ばれています。

さて、仲山氏は太子の夢を見て、次のように思ったそうです。

「聖徳太子は、独善的にならず、謙虚に相手の立場になって考え、お互いに配慮しあいながら行動するという姿勢を強調したが、それはわが国の不文憲法のひとつといってよいのではないかと仲山には思われた。(中略)制度改革も大事だが、それより前に心の用い方をよく整えよと太子は指導していた。これこそ、いまわれわれが見失っている大事な不文憲法の掟ではないのか。

この忘れがちな不文憲法を想いおこすにはどうすればよいのか。それには河戸や三上が言ったように、天皇が適切な機会に「お言葉」を発するのが良いかもしれない。

「政治家は、他人や他党の非をあげつらう前に己の至らざるを思うように。
他人の短所よりも長所を見て、それを伸ばしていくように行動していただきたい」と国会の冒頭で語ってもよいのではないか。そういう道義的な発言の権限をぜひ陛下に回復すべきではないか、と仲山は思った。」(2018宮崎貞行『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』きれい・ねっとp.252.)

不文憲法というのは、文章化されていない日本人の「心のあり方」や「問題解決の心得」といった、日本社会の深層に息づいている「和の精神」のことです。(続く)