其の五十一 君主制は、人間心理をよく知った上で意味を論じなければならない…

「天皇によって、日本は一つの国として存在してきた」などと言うと、「いや、それは違う。皇位を巡っての争いなど、君主の存在自体が闘争の根源になっているではないか」といった反論が起こります。壬申の乱や、朝廷が並立した南北朝時代など、そう言えそうな事実が歴史にあります。

しかし、一般に君主国は、政争が緩やかになる傾向を持ちます。君主となれる可能性を有する人間(王族など)に限りがあることで、それが一定の歯止めとなり、際限の無い権力闘争を抑えることになるからです。

君主制というものは、人間心理をよく知った上で、その意味を論じなければなりません。そうでないと、頭ごなしの否定論となるか、あるいは情念的な賛成論となるかのどちらかでしょう。

そもそも、人は相争う存在です。腹が減ってひもじいのは自分であり、転んで痛いのも自分です。身体(肉体)と心体(精神)が一体となって実体(自分)となっている以上、まず自分の危険を避け、自分の身を守ろうとするのは当然のことです。

それが、互いに争い合う「摩擦の元」になっているとすれば、人間を無秩序に放っておいたら闘争だらけの世の中となってしまいます。そこで必要となるのが、全体調和の要となる中心人格です。

人間は一人では生きられず、集団となって支え合い、助け合わなければ生きていけません。その際、中心人格に相応しい人物が存在していてこそ、人間集団は円滑にまとまることになります。(人間集団の最高単位としての)国家であれば、それは尚更(なおさら)のことです。

また、人は誰かに認めて貰いたがっています。但し、相手は誰でもいいというわけにはまいりません。幼い頃は親から、学生時代は教師から、そして大人になっても尊敬出来る人物(人格者)から「よくやった、立派だね。がんばっているね、素晴らしいよ」などと認めて貰いたいというのが人間心理です。要するに「いいね!」が欲しいのです。それによって、生きる喜びを味わい、幸せを感じることになるのですから。

では、どういう人が中心者であり、どういう人から認められたいのかというと、それは正統性があって尊崇出来る人ということになるでしょう。それが、我が国では、高い霊格をお持ちあそばされるところの、天皇陛下であるということに異論はありますまい。

その天皇陛下を中心人格(ミナカ)に、国民はそれぞれの年齢や立場を超えて、「上下本末を自覚したる社会を形成すること」になります。そのためにも、天皇陛下から「建国の理想」が「自らの名に於いて表明」される日が来ることを願って止みません。(続く)