其の五十 最大勢力のトップであっても、それはそれで「部分の代表」でしかない…

国家、会社、家庭。いずれも人間によって構成される集合体です。人間は集団を形成しながら生きていく存在であり、それらを統合する上で誰かが中心に立たなければ、それぞれ全体として一つにまとまりません。

その中心に立つ者のことを、大和言葉・国学の師である河戸博詞先生の盟友で、昭和天皇のご進講役であった三上照夫氏は「中心人格」と呼びました。国家の中心人格の場合、公平無私の人格をもとに、霊格と言うべき高い精神レベルを持ちながら、国家の進むべき方向性を指し示すことが役割となります。
三上氏は、続けて語ります。

「中心人格とは、一つの集合体に於いて、超権力・超党派、即ち、唯一公平無私なる立場に立ち、その人格の高さとそれに由来する確かな判断力においてのみ仰慕心服される存在なのです。中心人格は、力による序列に於ける頂点としての支配者ではないのです」(2018宮崎貞行『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』きれい・ねっとp.309.)

つまり「国家の中心人格は、政党といわず企業といわず、国家内部のいかなる権力機構、いかなる党派をも超越した立場に立っていなければ」(同p.310.)ならない存在であると。

そして、その「超越した立場に立って」いる者には、とても高い人格が求められることになるのは言うまでも無いことです。三上氏は、さらに述べます。

「国家の中心人格は国家内部のいかなる分野の人間でも仰ぎ見ることのできる、国民共通の鑑(かがみ)でなければなりません。国家の中心人格が国民の誰からも鑑とされるためには、高い人格という、ただこの事によってのみ敬慕信頼されなければならないのです。国民の喜びを己の喜びとし、国民の悲しみを己の悲しみとし、「我無くして彼無し、彼無くして我無し」の真実相を全身全霊で現す人格のことです。」(同p.310.)

さて、そのような高い人格となりますと、利害を計算し、損得を勘定しながら生きている一般国民の中から探し出すのは大変困難となるでしょう。そこで、三上氏は次のように断言しました。

「従って、政党の総裁のように自己の利害に腐心する者は言うに及ばず、ある大企業の社長で人望の厚い人物と言えども、国家の中心人格になることは不可能です。何故なら、その人物がいかに大企業の中心人格として優れていたとしても、国家全体、国民全体から見れば、既に一企業、一党派の人間に過ぎないからです。はっきり申します、我々一般国民の中から国家の中心人格を見出すことは不可能なのです」(同p.310.)

最多の議席数を有する政党が与党となって政権を担うとしても、それだけで日本全体を代表しているとは言い難い場合があるのは、たとえ最大勢力であったとしても、それはそれで「部分の代表」でしかないからでしょう。全体を統合する中心人格となるには、一党首ではどうしても限界があるのです。

また、社会に対する発言力の高さで定評のある経営者も、一企業のトップである以上、全体の代表者となるのは難しいと言えます。日常の意識から自社の損得勘定を抜くのは、なかなか困難なことだからです。それで、「我々一般国民の中から国家の中心人格を見出すことは不可能」となってしまう次第です。

そこで、「国家内部のいかなる分野の人間でも仰ぎ見ることのできる、国民共通の鑑(かがみ)」ということになると、それは我が国では天皇のみということになります。

日本が一つの国として続いてきたと言い切れる根拠として、皇位の継承において人皇初代・神武天皇から126代目の今上天皇に至るまで、すべての天皇の父親の父親…を遡(さかのぼ)っていくと神武天皇に辿り着くという事実があります。

また、君主制と一体になって年代に付けられる称号を「元号」と言いますが、我が国最初の元号である「大化」(西暦645年)以来、途絶えることなく元号を持ち続けている国が日本なのです。

この歴史的事実の前では、立派な大政党の党首や優秀な大企業の経営者であっても、中心人格の素質において足元にも及びません。それほどの宏遠にして、深厚な霊的権威が皇位にはあるというわけです。(続く)