やまとことば国学の師・河戸博詞先生に、同学の友つまり「朋友(ほうゆう)」がいた。それが三上照夫氏である。『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』という本によれば、三上氏は「天皇の国師」というべき人物で、昭和天皇の相談役を務めていたという。
同書の著者・宮崎貞行氏は、三上氏について次のように紹介している。
「三上照夫は昭和三年四月に京都に生まれ、平成六年一月に逝去した。十七歳の時陸軍に志願し、台湾沖の特攻作戦に出撃、重傷を負って療養中に敗戦を迎えた。帰還後、人生の意味を求めて、臨済禅と古神道、キリスト教神学を探究し、厳しい修行を積み、独自の境地を切り拓いた。ふとした縁から、昭和天皇のご進講役に抜擢され、昭和五十一年から昭和六十二年まで、天皇の私的な相談役を務めることになった。」(2018宮崎貞行『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』きれい・ねっとp.5.)
この三上照夫という人物の思想と生涯を描くのが同書の目的であり、三上氏の門人から聞き取りをした内容や、友人が残した日記などを裏付けとしたとのことである。
本の登場人物には、昭和天皇の侍従長・入江相政氏や、皇宮警察本部警務部長を務めた仲山順一氏、そして「三上の朋友河戸博詞」がおり、こうしたご縁から河戸先生は宮中祭祀の助勤を担うことになったのだろうと推測する。
また、三上氏は「松下幸之助の私的顧問」も務め、有力政治家へ助言をし、全国各地の経営者への講演を行うなど精力的に活動していた。その内容は「経営管理、指導者論、人間論から兵法論、憲法論、国体論まで多岐に」亘り、その「思想の根底には「生命体系」に対する深い洞察が一貫して流れており、家庭、企業、国家」について、それぞれ生命体としての発展を求める「生命哲学を説こうとし」ていたとのことである。(同p.6.)
人間はもとより、宇宙や国家をも生命体と捉え、生命原理による全体観を説かれた河戸先生の国学は、このように三上氏の思想に通じていたことが見えてくる。
それから、経済原理について三上氏は、「経済中心の資本主義や社会主義を超える、古くて新しい大和の社会システムを我が国につくり、世界に発信しようと呼びかけた」という。(同pp.6-7.)
経済中心、つまりお金と物が中心となっているのが資本主義であり、それは社会主義も変わらないと。それらを超える第三の原理の創造を呼びかけていたというわけである。この点も、全く一緒である。
しかし、三上氏の思想は「当時の言論界では無視され」、「独学者を軽視する大学アカデミズムでも評価されず、このため彼の名は一般に知られていない」まま今日に至っている(同p.7.)。それは河戸博詞先生も同様だ。そうした原因は、一体どこのあるのか?(続く)