其の十三 我が国が「一続きの国家」であると認められ得る根拠とは…

高校3年生のときのこと、教室の後ろに張られている「世界史年表」を見ていて、ふと思った事がある。世界の国々は、国家そのものが何度も替わっている。その中で、日本だけは昔から今に至るまで日本のまま変わらないのではないかと。

年表を見る限り、日本は「一続きの国家」であると感じてならない。でも、その理由が分からない。そこで、日本史の授業のときに質問してみた。教師は、苦しい作り笑いをしながら顔を真っ赤にした。そして、しどろもどろに国家の要件だの、日本の歴史にも紆余曲折(うよきょくせつ)があるだのと喋っているのだが、納得のいく核心を突いた答は何一つ無かった。

その教師は、筆者の父と高校の同級生で、のちに静岡県の副知事になるほどの優秀な人物。普段の授業は大変分かり易く、歴史の解釈は明解で、根拠も的確に示してくれた。この先生のお陰で日本史が好きになったと言っていい。それだけに、この質疑応答だけは全くの期待外れで、随分拍子抜けしたことを記憶している。

一体なぜ教師が、作り笑いをして真っ赤な顔になったのか。しどろもどろで答えにくそうだったのかも不明であった。

しかし、高卒後、専門学校に進学のため上京し、大和言葉の師である河戸博詞先生と出会い、国学の教えを受けることによって、それらの疑問は鮮やかに解けることになる。

「一続きの国家」であると認められ得る根拠。それは、「国体」「国民」「信仰」「言語」が続いているかどうかにあり、それらを調べれば「日本国の連続性」が分かるということを学んだのである。それらを箇条書きにすると…

・第一に、国体の連続性があるかどうか。クニとしての体制が連続している。
・第二に、国民の連続性があるかどうか。チスヂ(血筋)がつながっている。
・第三に、信仰の連続性があるかどうか。神々や祖霊への信仰が続いている。
・第四に、言語の連続性があるかどうか。言語が殆ど変わらず話されている。
※信仰と言語をつないでいるものとして「神話」を忘れてはならない。

以上の内容において、我が国は確固たる連続性を保持している。それによって、「日本は昔から今に至るまで日本のまま変わらない」という判断が可能になるのだろうと。教室の年表を見ながら、細かい理屈までは分からなかったものの、日本は「何かが違う国」なのだという感触だけは感じ取っていたのだろうと思う。

教師が作り笑いをして真っ赤な顔になり、しどろもどろで答えにくそうだった理由について。それは多くの教員が「階級闘争史観」に“洗脳”されている中で、どこまでそれに触れて良いかで困惑してしまったところにあると思われる。

階級闘争史観とは、歴史を階級闘争の産物と見る歴史観のことだ。この学説では、君主制や貴族政治は市民革命で打倒されて共和制に移行し、続いて資本家階級(資本を独占している富裕な市民層)は労働者革命で倒されて共産制の社会を迎えることになるのであり、それは歴史の必然的な流れであるという。

ところが、我が国は古代以来の国柄を強固に維持しながら、敗戦を乗り越えつつ経済発展による国民的豊かさを実現してしまった。とすれば、日本には階級闘争史観があてはまらないのではないかと…。

もしも「日本は昔から今に至るまで日本のまま変わらない」という事実を授業で触れれば、自分が学んできたことを否定しなければならないし、階級闘争史観をさほど評価していないとしても、日本の特殊性を認めてしまうことは避けたいと。

おそらく、そうした思いが頭の中をぐるぐると巡ってしまって、しどろもどろになったのだろうと、今頃になって推測する次第である。(続く)