其の十七 念子は、人間の精神活動によって生ずる量子的な存在…

「人間」の本質は何か? 物質なのか、それとも精神なのか…。人間を物質の集積と捉えたら唯物論、精神の現れと捉えたら唯心論となる。

河戸国学は、唯物論も唯心論も超えている。物質・精神に二分することなく、身体と心体を一体に捉え、それらの融合によって霊体が生じるとするのが河戸国学の霊魂観である。

このことに関して、昭和天皇のご進講役であった三上照夫氏と、皇宮警察警務部長であった仲山順一氏による対話が、宮崎貞行氏著『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』に載せられている。

三上氏「人間とは、目に見える肉体だけでなく、見えない霊魂を持ち、縁のある諸霊から指導を受けつつ交流している複合的な存在じゃないでしょうか。個人は自らの意思によって自分本位に動くのがよいという個人主義は、どうみても間違いなんです。個人の利益を諸霊や共同体の利益より優先させる個人主義はおかしいと思いませんか」(2018宮崎貞行『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』きれい・ねっとp.106.)

目に見えるのは身体、目に見えないのが心体と霊体で、「見えない霊魂」とは霊体のことだろう。そして、身体は死とともに滅び、心体つまり心の働きも肉体の死とともに終わる。では霊魂はどうかというと、河戸国学ではこれも(主体となる)心身の消滅とともに働かなくなると説明する。

こう述べると、霊魂が不滅であり、霊魂によって生まれ変われることを信じている人にはガッカリする見解かもしれない。が、生きている間の修行や鍛錬、それによる「超人への成長」を重んずる河戸国学では、霊魂すなわちミタマ(身玉・実玉)を死とともに作用しなくなるものと考えているのだ。このことについては、段々と述べていきたい。

ところで「丹田」をご存じだろうか。ヘソ下の奥にあって、動作の中心となる部位だ。丹田は生きている人にしかなく、解剖しても見つからない。死んだら無くなるという霊体も、その意味で丹田と似ていていよう。

文中の「縁のある諸霊から指導を受けつつ交流」するといった現象は、一体どういうことか。筆者は、それを「念子」というもので説明している。念子は人間の精神活動によって生ずる量子的な存在(超微粒子的エネルギー)で、生存中の想念・思念によって放出される。強く願うことや、熱意を持って取り組むこと、それを言葉(言霊)で発することなどによって現れることになる。

念子は死後も残り、子孫は先祖から、弟子は師匠から念子を受け取れる。それによって、子孫や弟子の心身に念子が集中して入れば「念子体」ともなると考えている。

念子をしっかり感じ取ることによって先祖や師匠を自分の中に“再現”させ、自分の中に念子体を起こすことが出来ると。そうして、既にこの世を去った先人の想いが再現されれば、「諸霊から指導を受け」ることが可能になるというわけである。

そのようにして、念子が受け継がれていくのがこの世の一つの仕組みであるとするならば、確かに「個人の利益を諸霊や共同体の利益より優先させる個人主義はおかしい」ということになる。「個人」は他の一切と切り離された個人ではなく、時空を超え、天地自然や他者との関係性によって成立している存在なのだから。(続く)