あらゆる存在は、物心が一如となって成立しています。モノ(物)とココロ(心)は、もともと不即不離(ふそくふり)であって分けられません。
それなのに、なぜ物と心に分けたのでしょうか。それは、目に見えるものをモノ、見えないものをココロと呼び分けることによって、存在をより的確に捉えようとしたのです。便宜上、視覚など五感に触れるものをモノ、五感に触れないものをココロと表現することで、存在の「あるがまま」をより正確に掴んできたというわけです。
大和言葉に、もの憂い、もの悲しい、もの寂しいなど、「もの」といいながら心を表している言葉が沢山あることが、そのことをよく示しています。
「ものごころ」などは、まさにモノとココロが一体であることを象徴している大和言葉と言えます。
大は宇宙、小は量子に至るまで、存在を表観すれば物質が、裏観すれば精神が観えるのです。人間であれば、表観で認識する「身体」と、裏観で認識する「心体」が、一体となって成り立っております。
さらに、身体と心体が一体となることで生ずるのが「霊体」です。霊体はミタマ(実玉)とも言い、身体を鍛え、心体を清め、身心一体となることによって働きが高まります(霊性の向上)。
天皇陛下のことを「玉体(ぎょくたい)」とお呼びしますが、まさに身心一如の至高のミタマが玉体なのです。
筆者の師・河戸博詞先生の同志であり、昭和天皇のご進講役であった三上照夫氏は、次のように語ったそうです。
「「古代の天皇は、そうやって修行を積まれて霊覚を開き、施政の基本方針については、みずから神意を聴いて決めておられました。そして、施政に対して起きる妨害や災害、反乱、侵略の危機、これをハタレの干渉とホツマツタヱは呼んでいますが、こういう悪霊の作用は、周りの巫女たちが予知して未然に手を打っていたんですね。けど、昭和の今、天皇を助ける巫女もいなくなり、国家の危機を予知することはかなわず、天皇ご自身も公務優先ということで祭祀から遠ざけられ、あるべき施政について神意を聴く力も悪霊を祓う力も失われたようですな」
言うまでもなく、天皇の最大の任務は、政務ではなく、祭祀をみずから執り行うことである。神明に対し祭事を奉仕することが任務であり、政事は臣下にまかせ、それを「きこしめす」のが天皇の伝統的な役割であった。「きこしめす」とは、臣下の政事を受け入れるという意味であり、政事をみずから執行することではなかった。」(2018宮崎貞行『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』きれい・ねっとp.123.)
天皇は最高の神主であり、神意を聴くことによって基本方針を定めてこられたのです。(続く)