其の二十二 毎朝・毎夜、5名の師匠に感謝の念を捧げ、さらなるご指導を祈願…

精神エネルギーである念子には、プラスからマイナスまで、そのレベルに幅があります。プラスであれ、マイナスであれ、その混合であれ、念子と(念子が集まった)念子体の働きによって、我々の人生は左右されています。その影響を受けることによって、人間は基本的に自由な存在ではないということを述べました。

しかし、自分が自由な存在ではないからと言って、人生を諦めて念子や念子体の力にすがり、もしくは自力・自助努力を止め、大事な自主性や主体性を欠いてしまうようでは問題です。

主役は今生きている人間であり、念子体はあくまでも脇役です。そうなければ意味をなさず、周囲の念子や念子体に翻弄されているようではいけません。

まさに、今生きているこの自分が自分の主役です。その主役が演ずる舞台は、概(おおむ)ね、日本を中心(基盤)とする世界です。そうして人生を終えれば、何度生まれ変わっても祖国に生まれたいと想うことになるでしょう。

その情念は、大方の日本人にとって素直な心情です。祖国日本の地から決して離れたくないし、異国で死んだとしても魂だけは必ず故国・故郷に戻りたいと願うようになるわけです。

先祖や先人がそう思って死んでいるのであれば、その魂(念子体)は、ちゃんと草葉の蔭で生者(子孫)を見守ってくれているはずです。あるいは、生者からよく見える故郷の山に居て子孫を見守っており、いつでも山から下りてご加護をくださるに違いありません。

そういうことからすると、基本的に日本人は「自分は永遠に自分であって、自分と別個の存在になりたくはない」と考えている民族ということになりそうです。

とりわけ日本人は、神仏を拝み、先祖を供養し、お墓参りをしないではいられない性格を持っています。神仏は人々を守ろうとしてくれます。たいていの先祖は、子孫を守ろうという意識を強く念子として残しています。

即ち日本人は、そういうタテイトの連続性の中で生きており、この自分が全く別個・別系統の、どこか異国なり異星の「見知らぬ誰か」となって生まれ変わってしまうなどということは、考えたこともない(考える必要のない)国民ということになりはしませんでしょうか。

そうして、日本人が神仏や先祖を熱心に拝むことの根底に、目には見えない働き(念子や念子体)に対する感覚が、すこぶる鋭敏であるということが挙げられると思うのです。

なお、そもそも念子は、生きている人間が発するものです。強く願い、祈り、念ずることによって念子が生じます。また、強く怒り、悲しみ、憂い、呪うことによってもマイナスの念子が現れます。後者が、いわゆる「生き霊」と呼ばれるものの元だろうと考えます。

それから、亡き師匠を思慕し、熱心に手を合わせる心情も、日本人らしい感性によるものだと考えます。筆者には沢山の恩師がおり、中でも次の5名を師匠と仰いでおります。

松下政経塾塾長、松下幸之助先生
大和言葉・国学の師、河戸博詞先生
文明法則史学の祖、村山節先生
沖ヨガ導師、沖正弘先生
東洋思想の大家、安岡正篤先生

日に2回、毎朝・毎夜これらの師匠に感謝の祈りを捧げ、ご指導をお願いしております。師匠の念子のお陰があってか、愚かで鈍い筆者でも、綜學を興し、その研究を進めることが出来ております。(続く)