其の十四 日本人の集合意識と、キミ(君)・オミ(臣)・タミ(民)

天皇は、単なる象徴ではない。象徴では“飾り物”となってしまう。高い霊性によって国民に「進むべき大道」を指し示されるところに、スメラミコトの存在意義がある。そうでなければ価値が無いと、大和言葉・国学の師である河戸博詞先生が常々語っていた。

天皇を大和言葉で、スメラミコト、スベラミコト、スメラギ、スベラキなどとお呼びする。これらに共通する音が「ス」で、ス音はサ行+ウ段で成立している。そのため、サ行音の持つ繊細さと、ウ段の音(ウクスツヌ…)の持つ閉じる働きが、しっかりと組み合わさって音義(音の意味)となっている。
洲(す)、透く、進む、鋭いなどのように、ス音には「前に鋭く出ていく」という先鋭の意味があり、先鋭である以上、ただの象徴であってはいけないのである。

『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』の著者である宮崎貞行氏は、天皇と祭祀について、同書に次のように記している。

「祭祀を通じて叡智を養われる万世一系の天皇の指導のもとに、理想的な君民共治の世を築いていくことが、わが国の本質、すなわち「国体」と考えていたのだ。
 それは、易姓革命により王朝の交代を繰りかえしてきた波瀾万丈の中国とも異なり、また貴族階級との血なまぐさい闘争を続けてきた西欧とも違う、日本国家形成の基本的な流れなのである。良かれ悪しかれ、それが日本人の集合意識に潜んでいる底流なのである。その流れは、明治維新に始まったのではなく、おそらく縄文後期から、遅くとも弥生の時代から連綿と続いてきたのではなかったか。
 万葉集にみられる君民のおおらかな心映えに支えられた共同体は、万葉時代に急に生まれたのではなく、それよりも数百年あるいは千年以上前からの文化的な底流の上に成立してきたのではなかろうか。十分な根拠を持ってきちんと説明できないけれども、直観的に言えばそういって差しつかえないのではないか、と国文学を専攻した入江には思われた。」
(2018宮崎貞行『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』きれい・ねっとp.26.)

最高の神官である天皇の、祭祀に基づく叡智によって、君民一体の世の中が築かれてきた。それが日本国であり、途絶えることのない万世一系の国柄(国体)となって今に至っているという説明である。

そして、神話と歴史が断絶しており、革命が繰り返し起こってきた中国とも、貴族階級が争い合って権力闘争を続けてきた西欧とも違い、連続性の高い歴史を持っているのが日本国であるという事実に気付かねばならないと。

日本人の集合意識というものは、「おそらく縄文後期から、遅くとも弥生の時代から連綿と続いてきた」ものであり、「君民のおおらかな」一体感も、少なくとも万葉集の時代、あるいはそれをさらに遡る昔から存在していたと指摘。
それは、昭和天皇の侍従長・入江相政氏の思いにあったというのである。

君(キミ)・臣(オミ)・民(タミ)が、一体となって共同体を形成してきたというのが河戸先生の見解だ。大和言葉で解釈すると、キミ・オミ・タミは、全て本質を表すミ音(身や実)が基盤となっている。「ミ」として三者は同質の存在だが、役割が違うからキ・オ・ミと呼び分けているとのことで、それを下記に示してみる。

キミ…威厳のある強いミ。キは、きつい、厳しい、切る、極めるなどのキオミ…立派で大きなミ。オは、大きい、主(おも)、重い、親(おや)などのオタミ…充実して広がるミ。タは、田、平(たいら)、立つ、溜まる、玉、足るなどのタ

キミをミナカに、オミが補佐し、タミが幸せに暮らすというのが、日本の国柄というわけである。

さて、祭祀によって霊性の高い政治を行うという在り方は、決して日本だけのものではない。それは、「ずっと古代には、世界の共通の制度であったはずだ。
古代ケルトしかり、古代エジプトしかり、インカ、マヤもおなじであったはずである」と。(同p.26.)

祭政一致の政治は、古代における未熟で、あまりにも古典的な政治なのだろうか。科学を重視し、民主主義を基本とする現代にあっては、あっさり無視・否定されてしまう。しかし、物質中心、人間中心、個人中心、(刹那的な)現在中心の現代文明が、本当に人類を幸福に、社会を平和にしていると言い切れるのだろうか。精神、天地宇宙、人類全体、過去未来(先祖と子孫)といった重要な事柄が、文明の進歩と共に、あまりにも失われて(軽んぜられて)いるのではあるまいか…。(続く)