自分とは何か、どこまでを自己と認めるべきか? 通常、少なくとも五感の認識する範囲までは、「自分を意識」することになる。
しかし、五感で捉えられる「身体」ばかり尊重していると、(個人主義的な)自己愛が蔓延(はびこ)るようになるとのこと。
「個性尊重」、「自己実現」、「自己主張」。これらが大切であると教えられて育った現代人は、とにかく目立とう、何かやって他人に認めてもらおう、自分の都合を優先して我欲を通そうと考える傾向が強い。そうして「俺俺(おれおれ)亡者」が蔓延(はびこ)る世の中になってしまったのだ。
そこで、目に見える「身体」とともに、目には見えない「心体」や「霊体」を意識し、それらを統合的に捉える必要が出てきたという。身・心・霊を融合的に観ていってこそ、人間のあるべき姿が現れ出てくると。前回、そういうところまで述べた。
続いて、仲山氏と三上氏の話題は、主護霊や背後霊などに及んでいく。えっ!主護霊、背後霊…。これは怪しいぞ、なんてあっさり距離を置かないでいただきたい。
筆者は、(自律的に機能する)主護霊・背後霊があるとまでは考えていないが、“主護霊的な存在”や“背後霊的な存在”であれば“あり得る”と思っている。その「…的な存在」を説明する際、先述の「念子」や「念子体」を用いることにしている。念子は念エネルギーのことであり、念子体は念子の集合体である。
我々が生きている間に放出している念子は、強く出されるほど残り易く、死後においても、この世に何らかの影響を与えていく。それが先祖の念子であれば、子孫に同調し易いため、(子孫である自分の)周囲に自然に集まって来て念子体になる。この「先祖念子体」が、主護霊(的な存在)となって子孫を守っていくことになると推測するのである。
また、弟子の場合は、師匠の念子を取り入れることによって、自己の中に師匠の念子体が生ずることになる。同じ学問(言葉)を継承しているのだから、弟子の身体の中で「師匠念子体」が再現され易い。それが主護霊(的な存在)となって、弟子を指導し守っていくことになるのではあるまいか。
怪しい話と思われるだろうが、この世は目に見える物質や身体だけで成り立っているのではない。目に見えない心体や霊体が、実際に働いていると考えた方が辻褄(つじつま)の合うことが多い。
昭和天皇のご進講役であった三上照夫氏は、次のように語ったという。
「「そうです。自主的に判断し自主的に行動するといわれているが、実際は、主護霊や背後霊などいろいろな神霊に指導されつつ行っているわけです。主護霊というのは、肉体を超えた真の己を生み出してくれた霊界の存在で、欧米の心霊学では、マスタースピリットと呼んでおりますな。通常、人には七柱の背後霊がついており、それを統括しておるのがマスタースピリットなんです。
悪い因縁の霊に憑依されて病気になる人もいますね。自由の範囲は、その人の過去生の因縁や境涯によって制限されており、無制限な自由は与えられてはいないのですよ」
一人一人の人間は、本来的に自由な存在ではないと三上は語った。」(2018宮崎貞行『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』きれい・ねっとpp.106-107.)
(続く)