筆者が松下政経塾に合格した23歳頃のことと記憶しているが、大和言葉・国学の師である河戸博詞先生のお供をして、宮中三殿にお参りさせていただいたことがある(23歳であれば、昭和54年・西暦1979年)。それをきっかけに、その後3回ほど、宮中祭祀のお手伝い(助勤)に上がらせていただくことになる。
皇居に参内するときは、河戸先生が運転される車に同乗させてもらった。門の守衛に対して、河戸先生はいわゆる顔パスであったように記憶している。宮内庁には事前に連絡してあったに違いないが、どの守衛も河戸先生をよく覚えていて笑顔で通してくれた。
河戸先生は立派な先生だから、それくらいは当然のことだろうと思い、特に氣には止めなかった。でも、今ごろになって、どうして先生は宮内庁の職員や宮中三殿でご奉仕している掌典職の方々と懇意だったのか、その謎を知りたくなった。
河戸先生には、「国学の世界観」という教本冊子以外にご著書は無い。今から15年前、平成22年(西暦2010年)9月27日の未明に老衰で逝去されている(享年95歳)。国学を共に学んだ兄弟子たちも、多くが既に鬼籍に入っている。今となっては河戸先生について、誰に尋ねることも出来ないと思っているところへ、宮崎貞行氏著の『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』に出会った次第である。
その中に、皇宮警察の警務部長だった仲山順一氏が登場する。下記は、その一節だ。
「仲山は、昭和四年の生まれ、東京大学卒業後昭和二十八年に内務省警保局の後身である警察庁に奉職し、この年昭和五十一年一月から皇宮警察に異動していた。公務のかたわら、神道の和の精神を研究し、赴任先の福岡、沖縄、鳥取などで「むすびの会」という神道の研究会を主宰していた。役人としては型破りの人物であるが、彼が熱心な神道家であることは知れ渡っていたから、皇宮警察に眼をつけられ転勤となった。
仲山は、明治、大正に活躍した古神道家川面凡児の思想に共鳴し、生成発展の原理であるムスビの力を信奉する論稿をときどき発表していたので、三上照夫の生命結合の講演に興味を持ったのである。仲山は、ムスヒの精神を別の形で表現してくれる同志として三上を尊敬していた。」(2018宮崎貞行『天皇の国師賢者三上照夫と日本の使命』きれい・ねっとpp.62-63.)
熱心な神道家であることを理由に、勤務先の皇宮警察から眼を付けられて転勤処分になったというのは気の毒なことだが、ここに昭和天皇のご進講役であった三上照夫氏、皇宮警察警務部長であった仲山順一氏、そして元陸軍士官学校教官であった河戸博詞先生の、三人による朋友関係としてのつながりが見えてきた。
おそらく、この人間関係から、河戸先生は宮中とのご縁を結ばれた(あるいは深められた)可能性があると推測する。
生命原理として生成発展の「ムスヒ」の原理を説くのは河戸先生の真骨頂であるし、文中に出ている古神道家の川面凡児(かわづらぼんじ)氏のことは、河戸先生の講義の中でよく耳にしていた。
『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』によれば、昭和51年4月22日、仲山氏からの連絡により、三上氏が上京して皇宮警察を訪問。そのときの「仲山氏の二十二日の日記には「pm3、三上照夫、河戸博詞、ユダヤ問題について」とだけ記されている」とのことである。(同p.63)
こうして、仲山氏からの連絡により、三上氏が皇宮警察を訪問した。そこに河戸先生が加わっているのは、三上氏からの誘いがあったからだと思われる。
(続く)