其の十八 自己は多くの関係性によって成立している~いわゆる個人主義への疑問…

腹が減ってひもじいのは自分、転んで痛いのも自分。ひもじさや痛さを誰かに代わってもらうことが出来ない以上、ここに「自己という明確な存在」があるという事実を、誰もが認めざるを得ないことになる。

とはいえ、自己はただ自己として、他と隔絶して存在しているわけではない。
「自分」が突然この世に登場するはずはなく、必ず親や先祖がいることによって誕生している。また、天地自然という環境、生まれ育った時代、他人とのご縁などによって成長を遂げていく。

そういうことから判明するのが、他から何の影響も受けない「独立した個人」というものは無く、自己は必ず「いろいろな関係性」によって成立しているという事実である。そして、全く独立した個人というものが無くなれば、いわゆる個人主義への疑問が湧いてくることにもなる。

三上照夫氏のこうした投げ掛けに対して、皇宮警察警務部長であった仲山順一氏が答えた。

「「なるほど、そういうことですか。人間は自由に判断できる個人であり、自由な個人を認める社会は良くなると欧米は言っていますが、必ずしもそうではないわけですね。たしかに、個性の尊重、自己実現、自己主張を奨励する社会というのは、自己中心的な自己愛へ陥りがちですね。」と仲山は言った。」(2018宮崎貞行『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』きれい・ねっとp.106.)

人間は、それぞれ自己判断力を持っている。それに基づいて自由に生活させればさせるほど、一人一人の自発的な努力によって社会全体が高まることになる。
それが欧米の考え方の基本であるものの、実はそのままだと決して世の中は良くならないと。

「個性の尊重、自己実現、自己主張」。これらの言葉には落とし穴があって、個人的成功ばかりが究極の目的と化し、「自己中心的な自己愛へ陥りがち」となるのである。個性の尊重は目立つため、自己実現は他人に認めてもらうため、自己主張は我欲を通すためとなってしまうのである。(続く)