では、会話について書かれている『徒然草』第百六十四段を読んでいきます。
《徒然草:第百六十四段》
「世の中の人が出会うとき、少しの間も黙っているということが無く、必ず何か話をしている。その内容を聞くと、多くは無駄話だ。世間のうわさ話、他人の批評などは、自分のためにも他人のためにも、失うことが多く得るものは少ない。
では、会話について書かれている『徒然草』第百六十四段を読んでいきます。
《徒然草:第百六十四段》
「世の中の人が出会うとき、少しの間も黙っているということが無く、必ず何か話をしている。その内容を聞くと、多くは無駄話だ。世間のうわさ話、他人の批評などは、自分のためにも他人のためにも、失うことが多く得るものは少ない。
兎に角、会話はキャッチボールみたいなものです。良い球を投げ合ったら練習になるのに、乱暴に投げたらデッドボールの連発にもなりかねません。言葉のキャッチボールも全く同じです。
また、自分にとって気に入らない発言を受け入れないという「言葉のボール拒否」も困ります。頭ごなしに「それはあり得ない」だの「全然理解出来ない」だのと拒否反応を示されれば、こちらは閉口せざるを得ません。特に、常に誤情報や陰謀論に引っ掛かっては、それらを無批判に持論とし、異なる意見を受け入れないで批判し続けるような人に「言葉のボール拒否」が見られます。
人の言うことを聞かないカラオケ会話、言葉尻だけ掴まえて話題を自分のほうに持っていく尻取り会話。どちらも言い放しであり、対話を重ねての深まりというものがありません。
まあ、雑談ならそれで構わないのですが、仕事や活動における会議で、カラオケ会話や尻取り会話が当然のように起こっていたら相当問題です。そうならないためには、今日は何を議論するのかについて、予(あらかじ)め主題を決めておくべきです。
あるいは、カラオケ会話の亜種に「尻取り会話」というのがあります。これは言葉のキャッチボールが出来ているようでありながら、実のところ相手が語る内容の言葉尻だけを捉えて反応しているものです。相手の発言の一部だけ使って、自分の言いたい事や自慢話に持っていこうとする会話ですので、遣り取りに深まりというものが起こりません。
例えば、こんな遣り取りが尻取り会話です。
人が集まったときの会話に、無駄話が多いということを兼好法師は指摘しています。人間は言葉を使う動物であり、話が弾むのは悪いことではありませんが、あまりにも無駄話が多いのは如何なものかと。
「ことば」の語源説に「凝止葉」、つまり「凝り止まった思いが外に出たもの」とする解釈があります。人は誰でも、心の中に凝り止まった思いがあり、それを誰かに向かって喋り、どこかで聞いて貰うことで発散したいと願っているものです。
成長したければ、「恥ずかしがらないで人前に出よ」という教訓の続きです。
どんな分野であれ、名人や達人と呼ばれる人は、人並み外れた努力家です。自分に与えられた才能を見出し、繰り返しの修練によって、それに磨きを掛けます。いかなる天才も、並な努力では、せいぜい上手と称えられる程度で終わってしまうでしょう。
武道の稽古やスポーツの練習、歌やダンスのレッスンなどを行う際、最初の内は全然分からないのが当たり前です。「見る」のと「やる」のとでは、大違いであるということを実感します。兎に角初心者は、指導者の教えを素直に受けつつ、見様見真似(みようみまね)でやってみるしかありません。
兎と亀の競争で、なぜ亀が勝ったのか。その理由として、目標の置き所に違いがあったという見解を聞いたことがあります。亀がゴールを見ていたのに対して、兎はゴールよりも亀を見ていたのです。
兎は、はるか後ろにいる亀を見、当分の間追い付いて来ないだろうと油断します。そして昼寝をしていたら、いつの間にか亀に抜かれてしまいました。
だから、亀だけがゴールを見ていたということになるわけですが、さらに推測すれば、亀には前に向かう理由となる原点があったが、兎にはそれが無かったとも言えるのではないでしょうか。
《徒然草:第百四十二段》其の三
「さて、どのようにして人々に恵を与えたらよいかというと、上に立つ者が驕(おご)って費やすのを止め、人々を撫で労(いたわ)り、農業を勧めたならば、下々に利益が生まれることに疑いはあるまい。
衣食が普通に得られていながら、さらに間違いを犯すような人をこそ、本当の盗人と呼ぶべきである。」
では、第百四十二段・其の二の意味を掘り下げていきましょう。
「俗世を捨てた人」というのは、仏道修行に専念するために出家した世捨て人のことです。世間的な栄誉欲や出世欲を捨て、物欲も去り、生きていくために必要な最低限の物しか所有しません。もはや俗世のしきたりや、面倒な付き合いに縛られることはありませんから、とても身軽です。