何かを見て美しいと感じられるのは、そう感じている本人の心が美しいからです。たとえば、無私の心で一所懸命人に尽くす姿を見たとき、我々は「なんという美しい生き方だろう」と感動します。
それは、自分の心の中にも同じように美しさがあるからで、「いや、善い人と思われたいから、無理して他人の世話を焼いているだけだよ」などと疑念の心を浮かべてしまうようなら、実際に相手が邪(よこしま)な人間であるか、あるいは自分の中に曇った心が宿っているかのどちらかでしょう。
何かを見て美しいと感じられるのは、そう感じている本人の心が美しいからです。たとえば、無私の心で一所懸命人に尽くす姿を見たとき、我々は「なんという美しい生き方だろう」と感動します。
それは、自分の心の中にも同じように美しさがあるからで、「いや、善い人と思われたいから、無理して他人の世話を焼いているだけだよ」などと疑念の心を浮かべてしまうようなら、実際に相手が邪(よこしま)な人間であるか、あるいは自分の中に曇った心が宿っているかのどちらかでしょう。
賭け事で勝ったり負けたりするうちに、ある段階で負けが重なり、手持ちの資金が底を突いてきます。まだいくらかあるものの、間もなく空っぽという状態です。
そうなったとき、残りのお金を全てはたいて一発逆転を狙いたくなるのが賭け事好きの心理です。次こそ自分に有利な目が出て、必ず勝てると期待するわけです。
勝負事において忘れてならないのが、目に見えない「勢い」という存在です。勢いが相手に掛かっているときは、何をやっても裏目に出てしまい、どうあがいても勝てないことが多いものです。
双六名人は、勝とうと思わず、負けまいと思って打てと諭しました。勝つ方法ではなく、負けない方法を考えよと。
そこで、まずどうしたら早く負けるかを考えてみます。こちらの弱点を洗い出し、相手が仕組んで来そうな手口を一通り予想してみるのです。それらが浮かべば浮かぶほど、どうなって早く負けるかと共に、どうしたら遅く負けるかについても明らかになることでしょう。
双六(すごろく)という、奈良時代に中国から伝わった遊びがありました。「ふりだし」から「あがり」を目指して進んで行く、現在の「すごろくゲーム」とは全然違います。盤の上に双方が白か黒の石を並べ、二個の賽(さい)を振って出た目だけ進み、早く敵陣に入り込んだほうが勝利となるのだそうです。
有名な木登り名人と言われた男が、弟子を高い木に登らせたときの話です。弟子は、ある程度修練を積んだ者のはずで、手際良く登って梢を切り終え、するすると下りてきました。
誰が見ても高くて危ない間は、名人は何も言いませんでした。ところが軒長くらいの高さになったとき、すかさず「失敗するな、注意して下りよ」と言葉を掛けたのです。
「高名の木登り」の段を初めて読んだのは、確か中学生の時であったと思います。教科書に出ていて、それを授業で暗記させられたことを覚えています。
人は、難しいところよりも、簡単なところや楽なところで失敗する。何事もホッとするときが危ないという教訓に、なるほどと思いました。
綜學という全体学を研究し、著作と講義に務めることが筆者の天職です。いわゆるデスクワークの中で最も時間を割きたいのが綜學の基礎研究ですが、毎日庶務に追われ、なかなかじっくり基本を学べる時間が取れないのが日常です。
矢を射る弓道では、二本の矢を一組と考えます。初めに射る一本目を「甲矢(はや)」、後に射る二本目を「乙矢(おとや)」と言い、その一対を「一手(ひとて)」と呼びます。
甲矢を射る際、乙矢も同じ手に持ち、続けて射ることが出来るよう修練するわけですが、それはある程度上手くなってからやるべきことであって、「初心の人」は二つの矢を手に持ってはいけないという注意が師匠から促されました。
一発で当てよ!一撃で倒せ!などという、集中力の重視を促す教えがあります。一方で「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」という考え方もありますが、修練として行うからには一本で決めなければ自己成長に繋がりません。