其の五十五 指導者には、指導者の幸福観が必要

《徒然草:第百四十二段》其の三
「さて、どのようにして人々に恵を与えたらよいかというと、上に立つ者が驕(おご)って費やすのを止め、人々を撫で労(いたわ)り、農業を勧めたならば、下々に利益が生まれることに疑いはあるまい。

衣食が普通に得られていながら、さらに間違いを犯すような人をこそ、本当の盗人と呼ぶべきである。」

※原文のキーワード
普通…「世の常」、間違いを犯す…「僻事せむ」

そこで、兼好法師は説きました。人々に恵が与えられるためには、まず上に立つ者が贅沢な出費を止め、その分を人民の生活に回せと。そうして人民を優しく労り、自立出来るよう農業を勧めれば、必ず人々に利益が生まれるとのことです。

そのように政治がきちんとし、衣食住が一般的な水準を満たしているにも関わらず、なお盗みを働くような者がいたなら「本当の盗人と呼ぶべき」であり、生活に苦しんで仕方無く間違いを犯してしまう者と区別しなければならないという戒めです。

ところで、「上に立つ者が驕って費やすのを止め」よという戒めが出ていましたが、上に立つ者の人生は決して楽ではありません。指導者なのだから何事も上手くいって当たり前と思われ、責任が重い割には努力に対して然程(さほど)誉められず、とりわけ現代では少しのミスを追求されては世間から文句を言われます。

常にストレスの多い立場におり、その反動もあってか、人の上に立つ者の中に驕り高ぶる輩が現れてしまうのでしょう。元々傲慢な者であれば、それは尚更です。

先憂後楽の言葉の通り、人よりも先に憂えては必要な事を整え、氣を緩めること無く役割を全うし、人よりも後れて成果を楽しむのが指導者の在り方です。

もっと楽な生き方もあるはずですが、敢えて先憂後楽の人生を選び、そこに使命感を求め、世の中から必要とされることを最上の喜びと受け止めつつ、自分で自分を鼓舞して前に向かって行くのが指導者の人生なのです。

従って、指導者には、この「指導者の幸福観」というものが必要となります。上に立つ者としての真の幸福観です。それを持たないと、個人的な名利(名誉と利益)にしか関心を示さない小者(こもの)で終わってしまうというわけです。(続く)