自分が取り組んでいる事を一つにまとめ、融合と安定を起こすために行うのが一束統合です。その別法に、時間軸による「一本統合」があります。これは、これからの人生を長期・中期・短期に分けた後、それらを一本に繋(つな)げていく手法です。
それを串団子(くしだんご)に例えてみます。3個の団子があり、それぞれ長期・中期・短期を意味するとしましょう。長期は人生を賭けて取り組んでいく大目標、短期はこの1年間ほどの間に実行する小目標、中期は長期と短期を結ぶ中目標(3年間~5年間くらい)です。
自分が取り組んでいる事を一つにまとめ、融合と安定を起こすために行うのが一束統合です。その別法に、時間軸による「一本統合」があります。これは、これからの人生を長期・中期・短期に分けた後、それらを一本に繋(つな)げていく手法です。
それを串団子(くしだんご)に例えてみます。3個の団子があり、それぞれ長期・中期・短期を意味するとしましょう。長期は人生を賭けて取り組んでいく大目標、短期はこの1年間ほどの間に実行する小目標、中期は長期と短期を結ぶ中目標(3年間~5年間くらい)です。
知が文明論、情が大和言葉、意が東洋思想や武士道。筆者の三種の講義内容を、こうして知情意で括り、さらに「綜學」という名称で「一束統合」したところまで述べました。
さて、何事も綜合的でなければ気が済まず、「どれもこれも捨てられない」タイプである筆者は、結局「一つの事さえも成就出来」ないで終わってしまうのでしょうか。そうであれば、筆者は兼好法師からお叱りを受けるしかないタイプの人間となります。
あれこれ摘(つま)み食いのように手掛けては、子供の玩具(おもちゃ)遊びのように目移りする。すぐ飽きるから、結局どれも身に付かないで終わってしまう。こんな状態では、一つもものになりません。
なかなか、為すべき事を一つに定めるのは大変なことです。才能に溢れる人ほど、何でも上手にこなしますから、却って器用貧乏ともなり、結局どれも平凡の上くらいで終わってしまいかねません。そこで兼好法師は、どれが一番勝っているかについて、よく思案せよと諭しました。
誰でも、日常に追われて生きております。大抵(たいてい)の目の前に起こる出来事には、差し当たって、すぐにでもやらねばならないという緊急性が付きまといます。
日常の実務というものは、外すことの難しい必要な務めです。それに、いくら目の前の作業とはいえ、やれば達成感が生じ、心が充実します。
ある者が息子を法師にしようとしたところ、息子は乗馬や早歌にばかり励んでしまい、結局息子は僧侶になれないまま年老いてしまったという話ですが、本当のところ息子は僧侶になりたくはなかったのではないかと述べました。それと共に、単なる生活の手段として、息子に法師をやらせようとしたのも間違いだったのではないかと思います。
徒然草には、実話かそれに近い言い伝えが、例え話として沢山書かれています。本題に入る前に例え話があれば、読み手の気持ちがほぐれてきて、その後の話を受け入れ易くなります。第百八十八段には、次のような話が前置きとして出ています。
不器用な専門家、器用な非専門家。これらを比べると、前者のほうが勝っているというのが兼好法師の見解です。その理由は、専門家と非専門家とでは、努力や姿勢に差があるからです。
諸道諸芸における一流の人物が修業時代を振り返りますと、かなりの人が、始めた最初の頃は鈍くて下手であったと語ります。仲間たちに比べ、自分は随分不器用だったが、諦めることなく続けているうちに段々上手くなっていき、気が付いたら一流の仲間入りを果たしていた、などという感想を述べるのです。