こうして登連法師は、素早い行動によって知りたかった「まそほのすすき」の意味を習うことが出来たのだそうです。この言い伝えについて、兼好法師は「尊くて滅多に無いこと」であると感心しました。
私たちは、何かについて特別に「気になる」という事があります。その気になった事を、さらに深く知りたいと思ったり、これは自分へのメッセージではないかとピンと来たりするのです。
そして、気になれば、そこから何らかの決意に至り、行動に繋がることにもなります。この「気になる」ということこそ、人生の所々で大切になる「次の展開へのきっかけ」ではないかと思います。
何事も「投げ手」と「受け手」がいて遣り取りが成り立ちます。自分に向かって投げられたものを受け取れるかどうかは、己の中にレセプター(受容体)があるかどうかによります。レセプターがあってこそ、ピンと来て反応するわけです。
では、どういうものが「気になるであろう事」を受け止めるレセプターになるのかというと、それが自分の中にある「原点」だと考えます。原点は人生の種であり、あらゆる成長の元となる本源のことです。そこから人生の根が張られたり、人生の幹が成長したりします。
それは立志の前にある「素志」というべきもので、原点=素志によって重要な決断が下されることにもなります。また、方向性のズレを修正したり、イザというときに腹を括ったりする際の基本となるのが原点です。どんなときでも原点を見失わないで生きているならば、まず大丈夫でしょう。
自分の原点を見つけたければ、一体自分は何のため・誰のために生きていきたいのか、これからどんな生き方がしたいのか、そう思えるきっかけや出来事(良い事ばかりでなく、辛い事や悲しい事、憤る事や屈辱的な事、失敗した事や挫折した事などを含む)は何なのか、ご先祖や故郷・祖国から受けたものは何かなどについて、最初は漠然と浮かんでくる素朴な思いで構わないから、しっかりと自己観照してみるといいでしょう。
おそらく登連法師は「まそほのすすき」がずっと気になっており、とうとうそれが分かりそうだというので、わくわくする気持ちで渡辺の聖のところへ向かったに違いありません。そして、きっとそれは歌人である登連法師にとって、人生の原点に関わる事であったのではないかと推測します。(続く)