敢えて大学に行かないで専門学校を選らんことについて、追記しておきたいことがあります。それは、専門学校に進んだことで大事な出会いを次々いただき、その後の運命が大きく開かれていったということです。
専門学校一年目の夏休みが終わった頃、同級生(と言っても18歳年上の男性)から、「群馬県の山奥の温泉宿(釈迦の霊泉)で滝行をやるから参加しないか」とお誘いを受けました。それは面白そうだと二つ返事で参加したところ、結局水量不足で滝行は出来ませんでしたが、そのときの講座の講師が、大和言葉の師匠である河戸博詞先生だったのです。
その滝行講座とやらは、実は日本を救うための集まりでした。欧米による世界支配の構造や、アメリカ占領下に置かれた日本の実態を真剣に学び、それを超えるための方法として、国民運動によって日本主義政党を興すべきことや、唯物主義に囚われている国民を救うため、日本人としての霊性を開発する必要があるということなどが主張されていました。
また、大和言葉による国学の学習や、詩吟による呼吸法、自然療法としての自然食などが実践されていました。しかし、総勢でも10数名の集まりに過ぎず、そのときの参加者は6~7名だったのを記憶しています。この集まりには、東京にいる間、定期的に参加しました。
その2年後になりますが、“滝行”のときとほぼ同じ人たちによる、ある合宿講座(会場は都内の公共施設)が開かれ私も参加しました。そこに呼ばれた講師の一人が、文明法則史学の村山節先生でした(このときの参加者は林を入れて僅か4名)。
ともかく、こうして綜學の柱となる大和言葉と文明法則史学の師匠に出会えたのは、専門学校に進学したからでした。
こうして振り返れば、滝行に誘われたのが全てのきっかけであり、声を掛けてくれたのが山口県防府市出身で、帰郷後に防府日報社社長に就かれる窪田耕二という(18歳年上の)同級生でした。窪田氏は、私が松下政経塾に合格したとき、紀元節を選んで長州・萩の松陰神社にお連れくださいました。
また、講座や合宿等を運営されていたのが姫路出身の中島剛氏です。中島氏は、私が専門学校を卒業して沖ヨガ修道場に住み込んでいる折、お便りをくださって松下政経塾受験を勧めてくれました。そのほか、専門学校時代に時代に出会った多くの皆さんによって、私の人生基盤と綜學の基礎がつくられました。頂戴した御恩に感謝するばかりです。
なお、窪田氏や中島氏は、最近まで林塾の弟子たちや綜學院の受講生らとも交流がありました。残念ながら、お二方とも既に故人となりました。(続く)