鏡は、何でもありのままに映すので、嘘偽りの無いマコトの象徴とされてきました。ところが、兼好法師は鏡というものを、己自身(主体性)を持っていないがために、いろいろなものに入り込まれてしまうことの例えに挙げました。
本来、そのままの姿を映す鏡のように、囚われや拘(こだわ)りの無い心でいてこそ、感性が素直に働き、外界からの情報を正しく受け止めることが出来るはずです。
鏡は、何でもありのままに映すので、嘘偽りの無いマコトの象徴とされてきました。ところが、兼好法師は鏡というものを、己自身(主体性)を持っていないがために、いろいろなものに入り込まれてしまうことの例えに挙げました。
本来、そのままの姿を映す鏡のように、囚われや拘(こだわ)りの無い心でいてこそ、感性が素直に働き、外界からの情報を正しく受け止めることが出来るはずです。
家というものは、誰も住まなくなると傷み易くなります。雑草が生い茂り、屋根や壁が傷み出せば、暗い雰囲気が漂ってきます。
閉店になった建物なども、灯りが消えて人の気配も無く、見た瞬間冷たい感じがして、ゾクッとさせられる場合があります。賑やかだった頃の明るい雰囲気はどこにも無く、そこにはもう氣(エネルギー)が起こされていません。
あまり便利すぎると、却って「人の力」が鈍ることがあります。ナビに頼るほど勘が鈍り、消費期限の日付だけ信じるようになれば嗅覚が鈍ってしまいます。
昔の人は、食べても大丈夫かどうかを匂いで自己判断していたものです。
平宣時(のぶとき)は、鎌倉幕府初代執権・北条時政の曾孫にあたります。宣時は幕府の執事として、五代執権の北条時頼に仕えました。だから時頼と宣時は、上司と部下の関係にあります。
その宣時が、「老いてから昔語りを」しました。それによれば、夜のまだ更けない頃に時頼の使いがやって来て、「今から、こっちへ来ないか」と誘われたとのこと。
「おいっ、今から出て来ないか…」。上司からそのように誘われて、とにかく普段着のまま出掛けて一緒に酒を飲む。そんな突然の招集に参上するのも、部下の責務であると同時に一つの楽しみであった。
少なくとも昭和はそういう時代だったし、平成を生きた者にも、その雰囲気は分かると思う。それがなんと、鎌倉時代にもあったというから面白い。
「自分自身をも他人をも頼りにしない」という兼好法師の教えと同様の見解を、江戸時代初期の大学者である山鹿素行が述べていました。(下記は佐佐木杜太郎著『現代人の山鹿兵法』久保書店165頁~166頁を参考にしています)。
《徒然草:第二百十一段》其の二
「人間は天地の霊長である。天地には限りが無い。人間の本性は、どうして(この限りの無い天地)と異なることがあろうか。
寛大にして窮まることが無ければ、喜怒(哀楽の感情)も妨げとならず、(外界に存在する)物によって煩わされることも無くなるだろう。」
論理は本来、全体を観ることで成り立ちます。部分的・断片的で根拠の希薄な情報に踊らされ、自分や自分たちにとって都合のいい意見にだけ耳を傾け、異なった意見を頑(かたく)なに拒否し、反対意見を唱える者たちを一方的に見下すようになりますと、もはや対話は不可能です。
「自分自身をも他人をも頼りにしない」という兼好法師の言葉には、なかなか深い意味があります。通常は「最後に信じられるのは自分だけだから、他人を頼りにするな」などと教えます。ところが、敢えて自分をもあてにしてはならないというのです。
何かを頼りにしてはいけない。依頼心を断て。そういう心得を述べる兼好法師は、さらに「自分自身をも他人をも頼りにしない」よう諭します。そうすれば「是なるときは喜び、非なるときは恨まない」と。