世界中どこの国の文化も、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)を使って成り立っています。中でも日本文化は、いっそう五感を繊細に働かせていると思われます。
日本画の自然な色彩の豊かさ、自然の音と一体化する邦楽器音、自然の香りをたしなむ香道、抹茶の自然な味わいを頂戴する茶道、手の鋭敏な感覚を生かす陶芸などを見れば、日本人がとりわけ繊細さを生かしてきたことが分かります。
世界中どこの国の文化も、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)を使って成り立っています。中でも日本文化は、いっそう五感を繊細に働かせていると思われます。
日本画の自然な色彩の豊かさ、自然の音と一体化する邦楽器音、自然の香りをたしなむ香道、抹茶の自然な味わいを頂戴する茶道、手の鋭敏な感覚を生かす陶芸などを見れば、日本人がとりわけ繊細さを生かしてきたことが分かります。
沖導師は、バランスについて、また次のように述べています。
「刺戟と反応のバランスのとれていることが健康で、体が内外ともに整っている状態である。刺激と反応の不平衡が体のアンバランス状態であり、不平衡から平衡に還ろうと動く場合に異常を感じるのであって、これが病気でありまた苦悩である。つまり生きているということは常に平衡状態であろうとする働きをいうのである。この働きは保護すれば弱くなり、鍛えれば強くなる。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房55頁)。
筆者は「綜學」を提唱しています。「綜學」は、全体観による「綜合學問」のことです。全体學である綜學の「ものの見方や考え方」の基本は、何に対しても「全体を観る」ということから始まります。そして、全体を観たら、次に核心を掴み、さらに流れを読みます。
何をどのように食べるべきかについて、沖導師は次のように教えています。
「何を食べるべきかは、その人の、その時(季節のもの)の、その所(生活している地方で産したもの)に適したものを選ぶべきである。つまり生命力の強いもの(蒔けば生えるもの)、できるだけ自然に近い調和のとれたもの(野草、山菜、果実等)、生食(調理しないもの)、完全食(葉・茎・根・頭・骨皮のまま全体をとる)、自然食(加工しないもの)を選ぶべきである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房52頁)。
「精神の作用」を生かすことで飲食に伴う毒化を防ぐとは、一体どういうことでしょうか。それは、プラスの意識で飲食することによって、食物を真に栄養化させることであり、免疫力を高めることによって、添加物などによる害を極力除去・緩和させよということです。
さて、元来心身は一如ですから、同じ食物であっても「体の働きの整っている場合は栄養となり、乱れている場合は毒にも」なります。「体の働き」の中に精神状態が当然のこと含まれ、心が乱れると食欲不振による栄養不足に陥ったり、過食による栄養過多や消化不良に悩んだりします。
自己化してこそ栄養になるという話の続きです。沖導師は次のように教えます。
「真の栄養力は少し食べて、それを完全に消化吸収することのできる体の働きであって、生体は適応作用によって、常に多食していると多食しなければならなくなり、美食していると美食しなければ間に合わないような身体ができあがってしまうのである。そしてたとえ同じ物であっても、体の働きの整っている場合は栄養となり、乱れている場合は毒になる場合もあるのである。消化し易い物ばかり食している場合は、消化し易い物ばかりを消化する胃腸となってしまう。また身体自身が造り出すようなものを薬物で補給していると身体自身は造り出すことを怠けて、造り出さないようになってしまう。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房52頁)。
生命体は、必要なものを摂取し、不要なものは排泄して生きています。摂取は呼吸と飲食によってなされ、酸素や栄養素が「生命エネルギー」となって生体が維持されます。そうして身体を健全に保つ働きを栄養といい、沖導師は食物による栄養について次のように述べています。
目標は大事、狙いどころも必要。でも、それが怒りや妬み、私利私欲などから意図されたものである場合、心と体に無理が溜まって歪みが生じ、不健康となる可能性があります。
痛みや凝り、冷えや慢性的な疲労感などの症状は、バランス回復を図ろうとしている体の反応であり、同時に今のままの生活を続けていてはいけないというシグナル(兆候)でもあります。