思案の挙げ句、探していた答は、自分の中にあったというご経験はありませんか。自分の中にあるもの、それはご先祖からチスヂ(血筋)として受け継いでいる霊格や天性であったり、生まれた国や故郷の自然や信仰、言葉や習慣などによって形成された人格や個性であったり、あるいは幼少期の学問や体験によって育まれた信念や価値観であったりします。
それらは、一言でいえば「我が原点」です。原点は、「自分の中にあるタネ(種)」の総称であると筆者は考えております。
自分に聞けというのは、イノチに聞けということであり、それはイノチに刻まれている我が原点に聞けということだろうと思うのです。では、どうやってイノチに聞き、原点に聞くのかというと、そのための行があり、それが瞑想行法です。
瞑想について、沖導師は次のように述べています。「ヨガは生命現象の事実とその現われである生活現象を直視し、それとすなおに取り組んで、瞑想を繰り返し、宇宙自然のうちに働いている力と、自己の中に働いている力は同一であるということに気付く、つまりこの力(神)はうちにあることを悟る。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房45頁)。
これを筆者流に解釈してみます。
まず、生命の働きをよく知る。生命活動は生活に現れるので、生活をよく観察する。次に、素直に生活に取り組み、生活の中で瞑想を繰り返し行う。そうすれば、宇宙に働く力と、自分を生かしている力が同一であることに気付く。また、その力が自分の内にあることを悟ることになる。
この、宇宙と自分、天と人、つまりマクロコスモスとミクロコスモスが一体であるということと、その自覚が悟りであるということを、東洋日本思想は一般的に説いております。その悟りに至るための方法として、瞑想や座禅、祈念行、鎮魂法などがあります。
瞑想は座禅とほぼ同じで、背筋を伸ばして座り、呼吸を整え、心身を統一する行法のことです。筆者も沖ヨガ修道場時代に、これを体験しました。
広い意味での瞑想には、動いて行う禅、すなわち動禅もあります。筆者の場合、8歳からはじめた世界三大宗教の教祖に対して世界平和をお願いする祈念行(内容を増やしつつ約58年間継続中)や、青年期から稽古している居合道や空手道の形演武などが動禅になっていると考えます。
また、学問にも天人合一、神人一体の真理を悟らせる力があります。東西文明800年周期交代論を説く文明法則史学は、文明や社会秩序の波動周期を通じて、宇宙と人類が一体であることを解明しています。あるいは日本神話の古事記冒頭には、宇宙の生成と地球の成立に続いて人間の使命(修理固成)が説かれており、宇宙の進化のために人類が登場したという物語が描かれています。
筆者は十代から文明法則史学と古事記(大和言葉)を学んできました。振り返れば、それらの学びは、学問による瞑想行であったという気がしてなりません。(続く)