其の九 嫌な事態に追い込まれても、なお耐え抜き、許し、愛せるかどうか…

火事場の馬鹿力とは、普段眠っている能力のことに他なりません。イザというときに発揮される底力がそれです。

誰の人生にも、例外なくいろいろな困難が伴います。予想もしなかった問題に悩まされたり、人間関係の様々な苦しみに揉まれたり、多くの障害に邪魔されたりしますが、それでも負けることなく困難を乗り越えていかねばなりません。

特に、社会的に何らかの責任ある役割を担っている人にとって、家族のことなど私的な範囲に起こる様々な問題は、物理的・時間的にそれへの対応が不十分になってしまいがちな辛さがあります。身は一つなのに公的な苦労と私的な苦悩の両方に挟まれ、どうしても公的な責務を優先せざるを得ないということに悩まされるのです。結局どこにも気の休まる場が無いという状況の中で、将来への一筋の希望の光を見出しては前に進むことになります。

しかし、負けないで歩み続ければ、やがて見えない世界の助けを感じてきます。「自分には必要なものが与えられている、既に救われている」といった感覚が生まれ、現象的には大変な我が運命を、次第に受け入れられるようになっていくのです。そうして、何があっても「そのときはそのとき」という、悟りとも言える心境を持てるようになり、合わせて火事場の馬鹿力を日常的に出している自分に気付くことにもなるでしょう。

沖導師は、悟りの心について次のように述べています。

「悟りの心(無条件、無対立、調和)の持主になることはむずかしい。切ぱ(せっぱ)つまらないと祈る心、どたん場にこないとまかせきる心にもなれない浅間(あさま)しさである。耐えがたきを喜んで耐えてこそ、許しがたきものを喜んで許せてこそ、愛せぬものを、それでも愛してこそ、絶対心への門は開けるのではなかろうか。肚(はら)はこういう生き方をする努力のうちに自然にできてくるものであると思う。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房13頁)。

日常我々は、なかなか神仏に祈る心にも、天に任せる心にもなれません。また、切羽詰まったイザというときや、ここ一番という土壇場にでも至らないと、なかなか肚は据わりません。

その切羽詰まった状況や土壇場は、いろいろな精神的な苦悩に襲われたときのことでもあります。耐えられないほどの苦しみや許せない怒り、とても愛せるはずがない憎しみ。あるいは、二度と顔を見たくないというほどの嫌な事態に追い込まれても、なお耐え抜き、許し、愛せるかどうかと。(続く)