「勘ほど確かなものは無いんや」。そう言われたのは、経営の神様と呼ばれた松下幸之助塾長です。勘は、いい加減な当てずっぽうではありません。松下塾長ほど、納得するまで熟慮を重ねる人はいませんでした。よく考えた末、最後の決断は勘を頼りにしたということです。
かくいう筆者も、どちらかと言えば勘の良いほうだと自負しています。何か問題が起きたとき、これから解決へ向かうのか、あるいはまだ悪くなるのか、自分に聞くと見通しが概ね判明します。何だかモヤモヤした感じが続くときは大体ダメで、特に何も感じなくなったときは大抵上手く行きます。
そういう感性は誰にもあるはずで、モヤモヤした不安感が強くなれば「苦しみ感」ともなります。苦しみも生命の声であり、何かをしていてどうしても苦しいというときは、それを避けよという感覚(第六感)の表れかも知れません。
但し、苦しみにもいろいろあります。成長するための苦しみなら、諦めないで乗り越えねばなりません。志を立てて何かに向かって努力を重ねていく人ほど、世間の無視や非難に遭います。いろいろな向かい風の苦しさを味わうことになっても、そこで負けるわけにはいきません。稽古事の鍛錬や自己成長のためにはじめた学習なども、継続の苦労を伴うから休みたくなったりやめたくなったりしますが、飽きてしまって中途半端になったら勿体ないことです。
こうした成長のための苦しみなら、そのまま堪えることに意味があります。ところが、そもそも苦しみの原因自体に問題がある場合は、その苦痛のシグナルを無視してはなりません。やり方を変えるなり、方向転換を図るなりして、より元氣になれる方向を見出すべきです。
また、原点からずれてきたために続けることが苦しくなっているというときは、始めたことの原点を再確認してみたら如何でしょうか。目的を見失ってしまって気が乗らないなら、新たに志を立て直すときと思われます。苦労の意味が分からなくなって苦しいという場合も同様で、考え方を切り替え、苦労の意味を掴み直し、目の前の障害を乗り越えていただきたいです。
それでも何でも苦しいというときがあるでしょう。今の仕事は、結局お客様や世間を騙しているから心が痛んで苦しいとか、全く天分に合っていないし、そもそも自分に向いていなくて苦しいといった場合です。そういうときは、思い切って新しい道(場)を探したほうが良いのかもしれません。
沖導師は、「苦しみとは自由且つ健全な活動をしようとして、生命自身の行う邪魔排斥運動なのである」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房44頁)と言われました。
自分に聞けというのは、まさにイノチに聞けということなのですね。その自分に聞くために行うのが瞑想行法です。(続く)