頭で考えないで、体で考えよ。それは一体どういうことでしょうか?
「体で考えるということは、実践してみることであって、体には意識で支配できる部分とできない部分とがある。そうしてこの二つの部分が相互に影響しあって、人間の日常生活にあっては、この支配できない部分が、支配できる部分に対して大きな影響力をもっているのである。
頭で考えないで、体で考えよ。それは一体どういうことでしょうか?
「体で考えるということは、実践してみることであって、体には意識で支配できる部分とできない部分とがある。そうしてこの二つの部分が相互に影響しあって、人間の日常生活にあっては、この支配できない部分が、支配できる部分に対して大きな影響力をもっているのである。
では、この自分を動かしている無意識を、どのようにコントロールすればいいのでしょうか。沖正弘導師の教えの続きをご紹介します。
「ここで課題となることは、この無意識をどのようにして支配すればよいかということである。
何を選び、どう動き、いかに生きるかを決めるのは、実は無意識であるという教えの続きを述べていきましょう。
「こうしたことがわかることは、自己の思考と行動を支配しているものは、この内在して、せしめている働き、つまり無意識だということをさとることなのである。
何を選び、どう動き、いかに生きるか。それを決めるのは、実は「無意識」です。表面的な意識よりも、深いところにある無意識が元になっている場合が多いと。
そもそも一つの現象に接しているのに見方が人によって異なり、同じ出来事に遭遇しているのに人それぞれ反応が違うのは、無意識の領域に存在している「何か」が個々別々だからです。
筆者の講義内容の中に、文明論(文明法則史学)や大和言葉(国学)があります。どちらも立派な師匠に付いて学んだものの、いつもおかしな質問をしてしまう私は、決して優秀な弟子ではありませんでした。
心はコロコロ動く。だからココロだという語源説があるくらい、「動かすまいと思っても動いてしまうのが心で」あり、コロコロ動くのは「何かに心がとらわれてしまうからで」す。
「無の境地」とは、何にも囚われることなく、ひたすら無心になっている状態のことです。でも、簡単にその境地に至れるわけではありません。沖導師は、そのために「心を動かさない練習を積むこと」が必要であるとし、そうした状態を「不動心、ニルビカルバ、サマージ」と呼びました。
「無の境地」という言葉があります。私欲による煩悩や、執着心による苦しみなどから解放された状態が「無の境地」であると言われています。何にも囚われず、ひたすら無心になってこそ、その境地に至ることになるのでしょうが、これがなかなか大変です。
さて、「道の奥」へ到達するには、一体どこで修行すればいいのでしょうか。勿論、何かの道場に入り、深山幽谷に籠もれば修行がし易いでしょう。ところが沖導師は、日々の生活や職業を、そのまま修行の場とすればいいと教えます。
一つの道で達人となれば、他の分野の奥義や極意に通じるということについて、沖導師はさらに次のように語ります。
「どの道の達人であれ、みな共通して、「吾の胸中何物もなく、求める心もない、ただ敬い、ただ受け、ただよろこび、ただ行い、ただまかせるのみ」という。ただ、ただの心、ただの生き方、これがヨガの極意である。