沖導師は、「くつろぎ、あがらないために必要なものは何かといえば、無心無体になる練習をすることである」と教えます。「無心」とは、何かに没入・没頭することによって、心に迷いや囚われが無い状態のことです。
連載
其の七十三 上がらないためには、無心無体になる練習が必要…
本番で普段通りの力を発揮するためには、何かに拘(こだわ)ったり、囚われたり、引っ掛かったりしてしまう心を解き放ってやらねばなりません。いかにして勝敗を決する本番のときに、普段の練習のときのような心のくつろぎと、体の緩やかさを保つかです。
其の七十二 勝負になると、かたくなってしまって平素の力を出せなくなる…
舞踊や音楽などの世界で、これから本番を迎える人に対して師範やコーチが投げ掛けるアドバイスが、「練習と同じ気持ちでやりなさい」とか「普段通りにやればいい」といった言葉です。
其の七十一 どちらを選んだら損をし得をするかという、表面的な迷いから抜け出す!
商売は勿論のこと、宗教や政治などの分野においても、相手を信じ込ませることの巧みなカリスマ的指導者がいます。話を聞かせているうちに「確かにそうだ」と思い込ませ、多くの人々を顧客や信者、支援者に取り込んでしまうのですから時として注意が要ります。
其の七十 一つの世界に長く身を置き、年を取るほど、自分から苦言を求めよう!
自己発見のためには沢山の苦労を重ねる必要があり、それには「苦言を呈してくれる者を求め」るのがいいとのことです。どの世界でもそうですが、先へ行き、年齢を重ねるほど、誰も注意してくれなくなります。誰だって人に意見するのは、決して気持ちのいいことではないからです。
其の六十九 まねながらも、自分にあった「角度」を発見しよう!
修養と訓練は、打算を捨て、無心にぶつかって行くことが肝要ということですが、ただ闇雲にやってもダメとのことです。それは、試行錯誤して自分を生かせる場を探すなり、努力工夫して成長する仕組みを作るなりしなければ、結局上手くいかないからです。
其の六十八 日常生活を稽古の場と心得て修練に励もう!
実戦の場は瞬間的変化の連続であるから、ゆっくり考える余地などどこにもありません。ひたすら無心に、自然体で取り組むしかないのです。無欲・無心になって余分な力を抜き、心身が統一された状態で対応出来るかどうかです。とりわけ激変期の指導者には、この瞬間的変化への対応力が必須となります。
其の六十七 儲けてやろうと思ってやると、かえって損をする…
人をなぎ倒して自分は勝ち、人に損をさせて自分は得をし、人を蹴落として自分は偉くなるといった在り方では、結局本当の喜びや満足感は得られないということを述べました。そういう勝ち方や儲け方、出世の仕方の場合、勝ちたい・儲けたい・偉くなりたいという力みが強まる一方ですから、どこかに無理が生じます。沖導師は、そのことについて次のように教えました。
其の六十六 自分だけ勝って、得して、偉くなる。それで何が残るのか?
本当の「自由」、それを自分のものにするには「自らに由(よ)る」ところの主体性が不可欠です。それと共に、何物にも囚われない自然体があれば、人として素直で自由な姿がもっと現れ出ることでしょう。
「ヨガでは、無願、無計、無跡の心構えでやれと教えている。それはこうしてやろうとか、ああしてやりたいとか思わないで、こうすべきが損だとか得だとかを考えないで、勝つためにやるとか認められたいためにやるとか、を思わない心でやることである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房69頁)
其の六十五 まさに「強い意志」とは、原点からブレない意志のこと
ちょっとした事ですぐ嫌になる、飽き性でなかなか続かない。そういう性向は、(過去の失敗体験等の影響による)無意識の働きによって、意識(顕在意識や表層意識)が固定化されているからだと思われます。沖導師は、この無意識をきちんと支配するよう促します。